ヒップホップ・カルチャーを担う女性たち「Akira Fukuoka」

Akira Fukuoka(Photo by cherry chill will.)

現在はシーンを代表するヒップホップ・レーベルのひとつである 「1%」を運営する福岡彬。A&R/マネージメントならではの視点で、90年代から今に至る日本のヒップホップ・シーンのこと、手がけてきた仕事について語ってもらった。

【写真を見る】担当した作品

ーヒップホップの入口は何でしたか?

福岡 私は10歳でアメリカに行ったんですけど、その時のアメリカはガンズ・アンド・ローゼズ、メタリカとかのヘヴィ・メタルが流行ってたんですよ。ヒップホップもMTVでは流れていたんですけどちょっと苦手でした。ある日友達のお姉ちゃんから教えてもらったのが、まだブレイクする前のニルヴァーナ、スマッシング・パンプキンズとかのグランジでした。そのお姉ちゃんに連れられてライブに行ったり、スケーターのお兄さんたちが滑っているような場所に連れていってもらったり。その人たちはいわゆるアンダーグラウンドと呼ばれている音楽を聴いていて、ファッションはドクターマーチンとネルシャツとか、スケートブランドという感じで。そういうカルチャーはまだ学校では浸透してなかったので新鮮で、好きになりました。その後ニルヴァーナが「Smells Like Teen Spirit」でスターダムに上がって、MTVにも頻繁に出てくるようになり、グランジという言葉も超有名になりました。学校でも「スマッシング・パンプキンズの新曲聴いた?」とか会話に出てきたり、同級生がバンドTやスケートブランドを着てドクターマーチンとかコンバースを履き始めるようになるんです。そこで初めてアンダーグラウンドのシーンがオーバーグラウンドに変わる様を見たんですね。私はその後バッド・レリジョン、オフスプリングとか、エピタフ・レコーズのバンドを見つけて聴き始めるんですが、気づいたらオフスプリングもまたスターダムに上がっていって。他のバンドもどんどんメジャー・レーベルと契約していくんです。

それで確かグリーン・デイがブレイクしている頃に、Nasの「The World Is Yours」のMVを観たんですね。その曲が私が思ってたヒップホップのイメージと全然違っていて。音もピアノのジャズみたいでおしゃれだっだし、歌詞も喩えだらけで難しくて知的に感じました。それでNasのアルバムを買ったのがヒップホップへの入り口だと思います。私、バンドの時も歌詞が好きだったんですけど、Nasの言ってることが全然わからなくて辞書で調べたりしてましたね。ちょうどその頃、ウータン・クランとかも出てきて、その辺りで初めてNYのヒップホップに出会って好きになっていった感じです。あとその頃、高校受験で日本に一時帰国するんですが、CDショップに行って「日本にもラップってあるのかな?」って思って探したら日本語ラップとバンドのコンピレーション・アルバムみたいなのを発見して。そこにキミドリとかMICROPHONE PAGERが収録されていて、初めて日本語のラップを聴いたんですけどカッコよくてビックリしたのを覚えています。アメリカのラップと時差も感じなくて、勝手に全員アメリカに住んだことがあるんだろうなって思ってました(笑)。



ー東京に帰ってくるのは、90年代半ばですよね。当時の日本のヒップホップはどうでした?

福岡 高校の先輩にスゴく音楽が好きな人がいて、その人に初めてクラブに連れていってもらったんです。六本木のどこかだったんですけど、当時はコギャルとか女子高校生が流行っていた時代だったのもあってか、すごく優しくしてもらって。ただ、そこではNasとかはかかってなくて、もっとダンス系のブラックミュージックがかかっていました。そのうちクラブで友達になった子から、「今度、雷のライブがあるけど行く?」って誘われたんですよ。「雷って何?」って聞いたら、「日本のラッパーのグループだよ」って。それで行ってみたらライブもカッコよかったし、私の好きなニューヨークのラップとか、知らないカッコいい曲がたくさんかかっていたんです。それからは友達と放課後に渋谷の109に行ったあとに宇田川町でフライヤーをチェックしたり、Still Diggin’やManhattan Recordsに行ったり。そういうことをしてるうちに、日本語ラップのイベント「亜熱帯雨林」を知って遊びにいくようになりました。いつもお客さんがたくさんいて盛り上がっていました。

ー当時、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのメンバーとも知り合ったんですよね。

福岡 まだNITROは結成されていなかったんですけど、原宿のお店で働いてるメンバーの方たちがいて、放課後に遊びに行かせてもらったりしてました。20時になると仕事が終わって、みんなでデニーズに行こうってなったり。私たちは年下だったので、遊んでもらっていたという感じですね。クラブチッタとかでライブがある時には誰かの車で連れて行ってくれたりしました。優しいですよね、感謝です。彼らの周りにはDJ、トラックメイカー、ダンサー、ライター、アパレル関係の人たちなどヒップホップ周りの仕事をしている人たちがたくさんいました。

ーそれで1996年には「さんピンCAMP」の開催ですが、当時の日本のヒップホップの盛り上がりはどう見ていました?

福岡 もちろん、「さんピンCAMP」にも行ったし、日本でもヒップホップが流行ると思ってました。熱量もスゴかったので。制服でManhattan Recordsのショップバッグを持っている高校生もたくさんいました。

Tag:

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE