J・ディラを支えた敏腕エンジニアが語る「伝説の裏側」「音作りの秘密」「マカヤの凄み」

デイヴ・クーリー

 
ニューアルバム『In These Times』が大きな評判を集めているマカヤ・マクレイヴン(Makaya McCraven)。ジャズ・ドラマーであり、コンポーザーであり、プロデューサーでもある彼の音楽は「ジャズとヒップホップ」もしくは「生演奏とポスト・プロダクション」の共存の最先端にあるもので、そこには様々な文脈を見出すことができる。

まずは拠点・シカゴとの繋がりでいうと、彼はアート・アンサンブル・オブ・シカゴから続く同地のジャズ史や、日本でシカゴ音響派と呼ばれてきたポストロックの系譜を継ぎ、所属レーベルのInternational Anthemがここ10年で築き上げたコミュニティを象徴するような存在といえるだろう。

かたや「ジャズとヒップホップ」の関係に目を向けると、マカヤは以前から影響源として、マッドリブとJ・ディラの名前を挙げてきた。彼は(多くのジャズ奏者と同様に)J・ディラのビート感覚を通過しつつ、マッドリブが実践してきた大胆なサンプリングやエディット、イエスタデイズ・ニュー・クインテット名義などにおける生演奏とのコンビネーションにも刺激され、その影響を独自に発展させている。


マカヤ・マクレイヴン(Photo by Sulyiman Stokes)



こういった文脈からも見逃せない影のキーマンが、マカヤが起用しているエンジニアのデイヴ・クーリー(Dave Cooley)。彼はJ・ディラ『Donuts』やマッドヴィリアン『Madvillainy』を筆頭に、Stones Throwによる伝説的名作のマスタリングを一手に引き受けてきた。M83、アニマル・コレクティヴ、テーム・インパラなどロック方面でも存在感を示しつつ、近年はマカヤにジェフ・パーカーなど、International Anthemの先鋭的なジャズ作品も手掛けている。

さらにデイヴは、再発レーベルにも重宝されてきた。Stones Throw傘下のNow-Againが発掘したファンク〜ジャズ〜サイケロックの数々や、日本でも話題になったLight In The Atticによるシティポップのコンピレーション『Pacific Breeze』のリマスタリングも担当。レアグルーヴ的な文脈も踏まえつつ現在の視点から最解釈することで、過去の名盤をふさわしい形で蘇らせてきた。時空を超越するようなサウンドを追求してきたマカヤが、デイヴの助けを求めたのはここにも理由があると思う。

今回、そんな重要人物にインタビューする機会を得た。ハイテンションな語り口で、次々と明かされる貴重エピソードの数々。International Anthemや現代ジャズのファンはもちろん、J・ディラやマッドリブを愛するリスナーの方々にもぜひ読んでほしい。


デイヴ・クーリーがJ・ディラについて語った動画(2016年)

 
―まずは改めて、「マスタリング」がどういった作業なのか説明してもらえますか?

デイヴ:僕の仕事は与えられたミックスを元に、アーティストが何を意図していたのか理解すること。そして、そのミックスに最後の磨きを入れるような作業を行い、解釈を引き立たせることだ。写真に例えるなら、色彩の調整に近いだろうね。曲と曲がひとつの繋がりになるように仕上げることで、アーティストがアルバムを通じて伝えようとした一連のメッセージを表現する手助けをしている。そのためには細やかな作業が必要なんだ。


デイヴが2001年、LAに設立したオーディオ・マスタリング・スタジオ「Elysian Masters」のホームページより

―あなたはエンジニアとして、2000年代初頭からStones Throwに携わっていますが、そこまでの経緯について教えてください。

デイヴ:Stones Throwのゼネラルマネージャーと、ナッシュビルにあるレコード屋の薄暗い地下で遭遇したことに話は遡る。僕は当時、自分のいたバンドでツアーをしていて、彼はナッシュビルでラジオ番組を持っていた。僕はビートを作るために、彼はヒップホップにつながる音楽の歴史を理解するために、古いジャズ〜ファンク〜ソウルの7インチをディグっていた。自分たちが手にした45回転盤を「僕はこれを買うよ!」みたいな感じで見せ合いながら興奮していた。

しばらくして、そのゼネラルマネージャーはLAに移り、僕も(出身地の)ウィスコンシン州ミルウォーキーからLAに引っ越した。それで「もしマスタリング・エンジニアが必要なら僕に声をかけてくれ」と連絡したら、彼から一曲依頼が来て、それをStones Throwが気に入ったんだ。「今日から僕らの全楽曲を手掛けてほしい!」と言われた。とはいっても、当時の彼らは今ほど多くのアーティストを抱えていたわけではなく、まだせいぜい5~10作品リリースしていた程度だった。そこから僕は、マッドリブやJ・ディラの初期作を全て手掛け、LA北東部から生まれたサウンドの一部になっていった。これが2000年〜2008年頃の話だね。

―7インチのコレクターどうしで意気投合したことも、仕事につながるきっかけとして大きかった?

デイヴ:そうだね。僕にはレコードコレクターやDJとしての経験があったから「仕事を任せても大丈夫だろう」と思ってもらえたんじゃないかな。

60年代のモータウンでは、昼はスーパーで働くエンジニア見習いが、「仕事をもらえますか?」と飛び込みでやってきて、「じゃあ君にはテープオペレーターをやってもらおう」みたいな感じで、後に名盤となるレコードにも携わることができたらしい。2000年代初頭の僕はまさしくそんな感じで、まだ自分なりのやり方を探っていた時期だった。そこで、自分がレコードコレクターとして聴いてきたサウンドみたいにすることを意識していたら、その後も仕事の機会をもらえるようになったんだ。それに当時は僕だけではなく、Stones Throwも一緒に成長していた。

Translated by Tommy Molly

 
 
 
 

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