田中宗一郎が語る、拡張するダンス音楽

マデオン(Photo by Matt Winkelmeyer/Getty Images for Coachella)

元々はアメリカのブラックコミュニティの生活や文化に根差した音楽だったハウス/テクノ以降のダンスミュージックは、その誕生から40年近くが経ち、かつての定義では捉えきれないほどの広がりを見せるようになった。特に2010年代以降、クラブのダンスフロアだけでなく、オンライン上のプラットフォームも重要な現場となったことから、ジャンルの溶解が進み、サウンドのフォルムは大きく拡張されている。果たしてダンスミュージックはどんな変遷を経て今に至り、これからどこに向かおうとしているのか? 日本のクラブカルチャー黎明期よりDJとしても活躍する、音楽批評家の田中宗一郎に紐解いてもらおう。

※この記事は雑誌「Rolling Stone Japan vol.19」に掲載されたものです。

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ー近年はダンスミュージックと一言で言っても、その定義は以前よりも大きく広がっている印象があります。なので、ダンスミュージックの状況は今どうなっているのか、その背景には何があるのか、ということを今回はお訊きしたいと思います。

田中 そもそもダンスミュージックの定義自体が難しいですよね。世界各地のフォークロアの大半はダンス音楽の要素を持ってるわけだし、例えば40年代以前からのスウィングジャズはダンス音楽だったとか、50年代のロックンロールもそうだとか言い始めると、いくらでも遡ることが出来てしまう。なので、とりあえず20世紀後半のハウス、テクノをひとつの起点にしたお話にさせていただきたいと思います。シンセやドラムマシーン、サンプラーといったエレクトロニクス技術を使って作られたダンス音楽ですね。

ー今回の話の起点となるハウスやテクノは、そもそもどのような音楽だと位置づけられますか?

田中 一言で言うと、コミュニティに根ざした音楽。ハウスは70年代後半~80年代シカゴのブラックコミュニティやゲイコミュニティから生まれた音楽です。80年代半ばのデトロイトのブラックコミュニティからはテクノが生まれた。つまり、ローカルコミュニティの生活や価値観に根差した音楽だと言えると思います。

ーなるほど。

田中 それが80年代後半あたりからロンドンを中心に欧州各地に飛び火することになります。英国だとアシッドハウスからUK独自のテクノ、ベルリンだとジャーマントランスの時代を経て、ディープなミニマルテクノのシーンへと発展していく。スペインのイビサ島はトランスやテクノの一大聖地になりました。つまり、ローカルからローカルへと派生していき、それぞれの土地のエスニシティを取り込んでいく。当時はそれがダンス音楽の拡張だったと言えると思います。

ー今もダンスミュージックにはある程度の地域性は存在するとは思いますが、必ずしもローカルコミュニティに根差したものばかりではなくなっていると思います。その変化はどのようにして生まれたのでしょうか?

田中 大雑把に言えば、複製技術と資本主義の要請による必然的な結果ということになるわけですけど、より具体的には90年代後半からミレニアムにかけて、特に欧州全体でダンスミュージックが良くも悪くも産業化したことが一つの起点だと思います。プログレッシブハウスやエピックトランスの時代ですね。かつては数百人単位のクラウドが集まるクラブで鳴らされていた音楽が何千人規模のスーパークラブや、屋外やフェスの現場で何万人という規模で楽しまれるものになった。その結果、そのサウンドもビッグルーム化していくことになる。その過程でコミュニティ音楽としてのテクノは一度終わりを告げたとも言えるかもしれません。だからこそ、その後の英国では「レイブへの鎮魂歌」とも評されたダブステップが生まれます。ダブステップはbpm140前後と、テンポこそテクノと近いんですが、ビートにシンコペーションを加え、より低音を強調したフォルムを持っています。こうして一度はシーン全体がアンダーグラウンド志向を強めることにも繋がります。

ーダンスミュージックの変容の理由として、産業化というポイント以外には何が挙げられますか?

田中 やはりインターネットですね。特に2010年代前半にもっともエキサイティングだったのは、SoundCloudやBandcamp上のシーンだったように思います。そもそもローカルに根ざしたダンス音楽にとっては何より重要だったはずの現場――クラブやレイブが行われた場所そのものがインターネット上に拡張されたとも言える出来事だった。それに伴って、ローカルや現場という言葉の定義さえも拡張したと言えるかもしれません。

ーインターネット以降の現場の拡張によってどのようなことが起きたのか、具体的に教えてください。

田中 ビートやサウンドのフォルムの変容と拡張ですね。当時、ジャンルやムードでタグ付けされたトラックをSoundCloud上で次々と聴いていくと、アメリカ南部のヒップホップ文脈でのトラップと、英国のベースミュージック文脈のトラップがそれぞれ形を変えていったり――かつてのハウスやテクノ、ブレイクビーツが持っていた定型から解き放たれ、ローカルそれぞれが持つエスニシティが互いに影響を与え合い、混ざり合い、ビートやサウンドのフォルムがひたすら多種多様になっていくのを感じました。イリーガルなエディットの氾濫もそうした状況にいい意味で拍車をかけたと思います。フューチャーベースにしろ、現在はハイパーポップと呼ばれるようになったサウンドにしろ、その起源を培ったのは間違いなく当時のインターネット上のシーンだったのではないでしょうか。

ー2010年代前半と言えば、EDMの全盛期でもありますね。

田中 両方の変化がパラレルに進んでいたんですよね。当時のEDMブームによって北米で初めてエレクトロニックなダンス音楽が大々的に受け入れられることになります。そもそもハウスやテクノが生まれたのは北米だったにもかかわらず、それ以前はニューヨーク周辺や、C&Cミュージック・ファクトリーのような一部のチャート上のメガヒットを除けば、むしろその受容の受け皿は欧州や日本だった。そう考えると、やはり良くも悪くもスクリレックスの存在と影響力は圧倒的だった――いや、勿論、当時、ディプロが果たした役割をはじめ、重要な存在を挙げていけばキリがないんですけど。ただ、スクリレックスが英国産のダブステップをブロステップへと進化させたこと。彼の出自の一つでもあるハードコアやスラッシュメタル譲りのハーフテンポをダンストラックに導入したことも画期的だった。何よりも大きかったのは、ロック/メタル的な荒々しさに加え、彼は1曲の中にビルド、ドロップ、ブレイクという変化を組み込むことを様式として確立させます。

ーEDMの時代の到来が訪れることに誰よりも寄与したのはスクリレックスだ、と。ただ、2010年代前半のEDMは確かに最大公約数的なサウンドでしたが、同時に画一的なサウンドだという批判もありました。

田中 アヴィーチーのような特異な才能も存在したのは確かなんですけどね。ただ、前述の、ビルド、ドロップ、ブレイクというフォーミュラがあまりに様式化され、乱用されたことは否めません。それ以前のダンストラック――特にミニマルテクノやクリックハウスはDJユースでもあった。つまり、DJが2曲、あるいは3曲をミックスすることが前提で作られてもいた。ところが、EDMのトラックには曲自体にビルド、ドロップ、ブレイクという緩急が用意されているので、DJがミックスする必要もないし、それ自体で曲として完結していた。だからこそ、この時期、EDM的なサウンドを持ったポップソングがチャートを席巻することにも繋がることになった。

ーそれまでの大方のダンス音楽と決定的に違っているのは、EDMのシーンが幾多のヒットソングを生み出すことになったことかもしれない、と。

田中 韓国のPSYや、LMFAOによるメガヒット、レディー・ガガの存在、あるいは、カルヴィン・ハリスのプロデュースによる2011年の「We Found Love」を筆頭にリアーナが積極的にEDMトラックをリリースし続けたことも大きかったかもしれません。

ーただ、あまりにも同じようなサウンドが急速に普及したことによって、EDM的なポップソングは2010年代半ばには廃れてしまいます。

田中 何よりもコーチェラが象徴的ですが、2010年代初頭にはフェス興行の中心がヨーロッパからアメリカへと移行することになります。北米圏におけるそうした巨大フェスの誕生がよりEDM文化の拡張につながったことは間違いない。やがてEDMの現場はチャートではなく、フェスに移行していきます。EDMがチャートから興行に軸足を移したのが2014、2015年くらいですね。

ーカルヴィン・ハリスがラスベガスのクラブとレジデント契約を結んだというニュースが報じられたのも2015年でした。

田中 その頃が興行としてのEDMの最盛期だったと思います。そこで一旦、いろんな意味で飽和状態になった。それからの5年、6年を経ての、今なんだと思います。

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