トム・ヨークが盟友と振り返る、レディオヘッド『Kid A』『Amnesiac』で実践した創作論

トム・ヨーク、2020年撮影(Photo by Franco Origlia/Getty Images)

2021年屈指のリイシュー『KID A MNESIA』で再注目されているレディオヘッドが、12月25日発売「Rolling Stone Japan vol.17」のBACK COVERに登場。2本の貴重インタビューと田中宗一郎・荘子it(Dos Monos)・柳樂光隆(『Jazz The New Chapter』)による座談会を、計19ページの大ボリュームでお届けする。

『Kid A』と『Amnesiac』は20年後の世界でどんな意味を持ちうるのか? この記事では、今年10月にロンドンのクリスティーズ本社で開催された展覧会「How to Disappear Completely」に伴い、トム・ヨークとスタンリー・ドンウッド(レディオヘッドのアートワーク担当)が語ったインタビュー動画を抄訳・再編集。音楽とアートワークの関係を軸に、両アルバムの制作背景を振り返る。聞き手はアートカタログ『KID A MNESIA : A Book of Radiohead Artwork』にエッセイを寄稿しているアート・キュレーターのギャレス・エヴァンス、日本語版の翻訳・執筆は『KID A MNESIA』日本盤ライナーノーツを執筆した音楽ライターの坂本麻里子。




―『Kid A』/『Amnesiac』の始まりはどんな風だったのでしょう。

トム:あれは『OK Computer』期の終わり、同作のツアーを終えた頃のことで、僕は自分だけの一種異様な「迷宮」みたいなものの中に囚われていた。奇妙なモノローグ、自分のやってきた何もかもを自己批判する声が聞こえてきた。それは、人々が一風変わったやり方で僕に色んなことを投影してくる状態に追い込まれたこと、ある意味そこから来ていたんだけれども、その状態に対処するための適切な方法が当時自分にはなかった。だから僕はそれらの多くを吸収し内面化していたし、それによってある種シャットダウンさせられてね。曲を書こうとする、あるいは楽器を演奏しようとするたび固まってしまう、みたいな。頭の中で小さな声がうじゃうじゃ聞こえて、それが妨げになってしまう。「Everything In Its Right Place」のリフをピアノで繰り返し弾きながら自分を一種の瞑想状態に持っていき、なんとかそれから逃れようとしたものの、逃れられなかったのを憶えている。

その状態が続いた末に僕はしばらくストップしてみた、というか。あの頃よくコーンウォールに滞在していて、あちこち歩き回り、ランドスケープを吸収していた。とにかくそれらの景観を絵に描き、吸収し始めた。音楽に取り組むのは一時的にやめにして視覚だけを通じて物事を考えよう、と。クリエイティヴになれるまた別のやり方を見つけられるのでは? そんな風に考え始めた。で、どういうわけかそれが何もかもに役立った。一種、あの危機状態を緩和してくれたというのかな、非常にゆるやかなペースで、だったけれども。と同時に、そのランドスケープの要素がある種新たなヴォキャブラリーになった面もあった。ランドスケープというのは(苦笑)実に、あらゆる意味で陳腐なクリシェと化しているけど、そこは考えなかった。ダン(スタンリーの愛称)が会いに来るとふたりで散策する、自分たちのやっていたのはそれだけだったから。で、たぶんあれは僕たちがパリに行った時だったんじゃない? あそこでホックニー展(※1999年1〜4月開催)を観た時……。

スタンリー:僕たちがあの、予期せぬ大成功を収めた『OK Computer』のためにやってきたことというのは非常に小型でね。書字板(タブレット)を使って絵を描いていた。だから、(至近距離にある何かを見て素描するジェスチャーをする)目と手の反射的な協調関係だけだったし、エモーションはまったく介在せず、何もかも非常に理知的に考察されていた。というわけで(『Kid A』/『Amnesiac』の時に)あれら巨大なキャンバスを用いるというのは、全身でそこに関わる、それこそ身体の組織にまで刻まれた記憶やトラウマすべてで向かい合うという発想だった――ただ、頭で考えただけではなくてね。痕跡を残すためのこの、より腹の底から発される本能的な手法みたいなものを通じ、作品へと解釈するって発想だったと思う。

トム:あれは突破するための、錠を壊すためのひとつの方法だった。それは間違いない。


左からトム・ヨーク、スタンリー・ドンウッド、ギャレス・エヴァンス(インタビュー動画より引用)

―どのように制作環境を一緒に起ち上げ、この創作プロセスを始めていったのでしょう? 

スタンリー:多くはさっき話に出た、ポンピドゥー・センターのホックニー展からだったと思う。バンドの側は音楽を作ろうとしていたけれども、あの時点で彼らはまだ自分たちのスタジオを手に入れていなくて、パリとコペンハーゲンに一時逗留していたというか、僕たちは両都市で美術鑑賞をやっていた。あのホックニー展は「グランド・キャニオン」が目玉の展示で、あれは一種の巨大な、四角いキャンバスでできたモザイクのようなものでね(※1998年の作品『A Bigger Grand Canyon』。キャンバス60枚を用いた幅7.4メートル、高さ約2メートルの大作)。それぞれのキャンバスの大きさはまあ妥当なものとはいえ、それらが集まり、それこそグランド・キャニオンに足を踏み入れるのに近い感覚をもたらすもので。驚異的だった!

トム:あのホックニー体験が、あの頃自分たちのやっていたことの中でランドスケープを言語として用いることができるって発想を掻き立てたというか。偶然とはいえ僕たちはもう(風景画を用いた)作業を始めていたし、けれどもそれは束縛から解放されるためにやっていたことだった。ところがホックニーのやっていたことを目の当たりにして、突如「おっ! これは……たぶん理にかなってる」と、自分たちのやっていることには何かあるらしいと思えた。

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