PassCode南菜生が語る、「ラウドな音楽性と狂騒感」を求める理由

「歌っている時期によって曲に対する感覚が変わる」

ー今日何度も話していただいている「自由になっていけばいい」というのは、作為的なものを脱いでいくことと同義のような気がします。

……もちろんこれは過去を悪く言ってるんじゃなくて。あの時は力でねじ伏せるような強さが必要だったし、いろんなものを見返さないと前に進めなかったから。ただ、本来的にはもっと明るく表現したいと思っているのに、実際の表現が負の感情まみれになっていることに矛盾を感じて気持ち悪くなる時もあったんですよ。あれ、何をやりたくてステージに立っているんだっけ?っていう感覚になることもあったし、本当は周りの人をハッピーにしたくてやっているはずだよな?って。だから、今のほうが本来的な自分で歌えているんでしょうね。

ー今のお話を聞くと、ライバルが少ないから選んだ音楽性だとはおっしゃいましたけど、ラウドでヘヴィな音楽性に突き進んだ必然もあったんじゃないかと思いました。やっぱり「見返したい」「ひっくり返したい」っていう鬱屈や、「幸せになりたい」と「消えたい」が同時に存在してしまう倒錯がそのままガソリンになってきたのがヘヴィロックだし、それが当時の南さんにフィットしたのも納得がいくなぁと。

それはあったと思います。少し前までは、『ZENITH』の曲を歌うと心臓がズシッとなる感覚があったんですよ。でも今はようやく、あの頃の曲を歌う時に「この曲達があったから今がある」と思えるようになった。ただ鬱屈した気持ちを吐き出していた曲達を、「強くなるために歌っていた曲」という感覚で歌えるようになったというか。歌っている時期によって曲に対する感覚が変わるのは面白いですよね。曲が育っているとも言えるけど、自分が強くなったから曲の捉え方が変わったとも言えるわけで。メンバーも、ステージ上とステージ裏で変わらない感じになってきたんですよ。そのままの状態でステージに立ててる。「こう見せなくちゃいけない」っていうのがどんどんなくなって、そのほうがむしろPassCodeらしいんじゃないかっていうことに気づき始めてる気がします。

ー明るい曲が増えたから等身大を出せるようになったとおっしゃいましたが、むしろその明るい曲を呼んだのは自分達自身なのかもしれないですよね。実際にベストアルバムで時系列順に聴いていくと、ヘヴィネス以上に、踊れて跳べるハイな解放感が増していく過程がよくわかります。

それこそ初期からメジャーデビューくらいは、Fear, and Loathing in Las Vegasを彷彿とするようなものだった気がするんですね。私達も「ベガスご本人達はどう思ってるんだろう?」って心配してたくらいで。でも2017年に『MEGA VEGAS』(Fear, and Loathing in Las Vegas主催の大型イベント)に呼んでもらった時に凄く嬉しくて、間違いなく転機になったと思うくらい、あの日にいろんなことを全肯定できた気がするんですよ。……なんとなく、今までのインタビューでは「ベガスの影響を受けていることは自覚してます」っていうのも話しちゃいけない空気があったんですけど。

ーお気持ちはわかります。影響源やリファレンスを「パクり」と混同されることは未だに多いですし。

でも、私は別に言ってもいいと思ってたんですよ。自分達のルーツになっているのは間違いないですし、好きで聴いてきた音楽を自分達なりに消化するにはどうしたらいいかを必死に考えてきましたし。私も邦ロックと呼ばれる音楽の影響をちゃんと自分のものにしてきた自信があったから。今は特に、PassCodeはPassCodeだって胸を張れるからこそ、影響源を話すのが悪いことだと思わないんですよ。そもそも音楽って、学んだり受け継いだりしながら自分達のオリジナルを作っていくところに面白さがあったり、繋がっていく素敵さがあったりするじゃないですか。

ーそうですね。

私達も、何年もかけてPassCodeっぽいと思える部分を強めてこられたと思いますし、それはルーツになる音楽があったからこそなんですよね。

ー今回の「Freely」「FLAVOR OF BLUE」は極端な展開が山盛りな楽曲で、PassCode全部盛りと言ってもいい気がしたんですね。この極端さが極端さで終わらないのは、オーセンティックなバンド編成とは違うグループ編成だからこそだと思って。歌のリレーで繋げるから曲がパズルで終わらないというか。そこに、バンドではないからこそ自由にラウドミュージックを消化できる理由を感じたんですが、ご自身ではどう感じますか。

歌う人間が4人いるっていうのが、何を取り入れても気持ち悪く感じない要因なんだろうなって私も思います。曲の展開もそうですけど、歌詞で「前後で言ってること違うじゃん」っていう箇所があったとしても、歌う人間が違うから成立するというか。強気な<僕>がいたり、突如弱気な<僕>が出てきたり、折り合ってない気もするんですけど、でもライブで曲を歌っていくと、4人いたら4人の感情が混在していていいんだなって思えるようになったんですよ。一見折り合ってない部分も、4人個々の表現によって繋ぐことができるというか。メロディがガラッと変わるところも歌う人が違えばスムーズに繋げるというか。それは私も感じていて、その個性の繋ぎ方がPassCodeっぽさになってる気がしますね。

ーそして「Freely」も「FLAVOR OF LIFE」も、PassCodeのラウドど真ん中をフルスイングしているような曲で。歌詞の内容も、リスタートを切る今をそのまま歌っているんじゃないかと思う2曲でした。ご自身でどう捉えられていますか。

実は「Freely」も「FLAVOR OF BLUE」も、有馬が加入する前からあった曲で、このタイミングに合わせて作った曲ではないんですよ。なのに歌詞の内容がこんなにハマってくるのは、運命みたいなものなんだなって思わざるを得なくて。ずっと続けてきたことが、いろんなタイミングに合ってしまうんだなって。なんなら、以前の4人で歌うよりも新しい4人で歌うほうが強い意味を持ってくるのが不思議ですよね。「Freely」には<身勝手だって サイテーだって/恨んでいいから その手で/ぶち壊して>っていう歌詞がありますけど、以前の4人じゃなくなっても私達は続けていくと決めた時に、今までの4人じゃなきゃ応援できないと思う人も一定数いたと思うんですよ。でも私達は辞めないと決めて、誰になんと言われようと続けていこうと思った。それを身勝手だと言われてもいいって思ったんですよね。で、それがそのまま歌詞になって、このタイミングにズバリとハマっていることにビックリしたんです。

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