ヘヴィメタル/ハードロック伝説 KISS、ガンズ、メタリカ等の知られざる素顔を増田勇一が語る

ボン・ジョヴィ「ジョン・ボン・ジョヴィと打ち解ける方法」

チープ・トリックのように日本から人気が出たバンドと言えばボン・ジョヴィです。彼らの初来日は84年、『BURRN!』が創刊した年の夏でした。「スーパーロック’84イン・ジャパン」に二番手として出演して、その次に来日したときにはホールツアーで2000人クラスの会場を満員にして、その次にはもう武道館。だけど、『スリッパリー・ウェン・ウェット』が出る前の週の開催という無謀なスケジュールだったこともあって2階席はガラガラ。ちなみに、アルバムがバカ売れしたあとに来日したときは追加公演に次ぐ追加公演という状態に一変していました。

僕自身は、2階席がガラガラだった武道館公演のタイミングで初めて対面取材をしました。当時のジョン・ボン・ジョヴィはすでに、次のスター候補。それ以前から『MUSIC LIFE』ではジョンとリッチー・サンボラを中心にガンガン推していたので、『BURRN!』では視点を変えて、あえてリッチーだけを取材するという硬派路線をとることもありました。すると取材当日、ジョンがその様子を覗きに来るんです。さりげなさを装いながら。彼からすると、「なんで俺じゃないの?」というのが本音だったんでしょうね。

当時のジョンはちょっとワイルドぶりたくて、ホテルのテーブルに足を投げ出してみたりするような人でした。なので、僕が彼の取材をすることになった際も、当時の編集長から「増田もね、今はこのアルバムが気に入ってるから取材したいんだろうけど、会えばきっと嫌いになるよ」と言われていたし、過去に彼の取材をしてきた他の人たちも、「ジョンはとにかくスター気取りだし生意気なやつ」と口を揃えていて。それで逆に火がついて、「じゃあ、絶対に仲よくなってやる!」と僕は思ったんです。

まず、ジョンがエアロスミスのファンだということを知っていて、実際、彼らのTシャツを着て写真に納まっているようなこともあったので「よし、これでいこう」と思い立ち、エアロのレアもののTシャツを着てインタビューに臨みました。僕がホテルの部屋で待っているとジョンが現れて、「ああ、いいTシャツだね」とひと言。そこでまず掴みはOK。そのあとジョンはソファに座って、靴紐を直すために屈みました。そこで僕の足元が目に入ったんでしょう。彼はニヤッとしながら顔をこちらに向けました。僕はジョンの真似をして、ピンクと紫のコンバースを片方ずつ履いていたんです。そこで「もしかして、お前、俺のファンなの……?」みたいな雰囲気になり、一気にいい感じで話ができたんです。事前にしっかり仕込んでいったのが功を奏しました。

その取材のときは撮影用に、「ウォンテッド・デッド・オア・アライヴ」にちなんで指名手配書を小道具としてつくりました。茶色いわら半紙みたいな紙に文字を組んで、紙の端をタバコで焦がしたりして、けっこう凝った物を用意したんです。それを壁に貼って、ジョンにポーズをとらせて撮影スタート。だけどその途中、その手配書を剥がして、グシャッと丸めて、ポイッと捨てる様子を連続写真で撮りたいとカメラマンが提案すると、ジョンが難色を示したんです。なぜかと尋ねたら、「こんなによくできたものをグシャッとなんてできないよ……」って。いいヤツじゃんと思いましたね。

たしかに、当時の彼は客観的に見るとやや生意気だったとは思いますけど、彼と同世代の自分としてはちょっと理解できるところもあって。KISS、エアロスミス、チープ・トリックといったバンドのことは子供の頃から尊敬しているけど、自分たちは違うものをつくっていきたいんだという強い意識が彼の態度から感じられたものでした。




デフ・レパード「即席のアコースティックライブ」

同じバンドを何十年も取材していると感慨深くなるような場面が巡ってくることも多いですね。「この人たちがこんな作品をつくるようになったんだ」と思うこともあるし、人気のピークを過ぎてもスタンスが変わらなくて、「この人たちは本当に信じられるな」と改めて思わされることもあります。そんなバンドのひとつがデフ・レパード。

『アドレナライズ』のツアーで彼らの取材にアメリカのダラスに行ったとき、その日がたまたま僕の誕生日だったんです。かなり急に決まった取材で、前日の夜に現地に着いて、次の日にライブを観て、翌朝日本に帰るという行程。なかなか大変なスケジュールだったんですけど、すごく面倒見のいいツアーマネージャーがいて、ありがたいことに開演前の幕が降りた状態のステージを見学させてくれたりしました。「楽しんでくれた?」と聞かれたので、「実は今日、僕の誕生日なんだけど、最高のプレゼントだよ!」と言ったらそれがメンバーに伝わって、楽屋でメンバーの奥さんも混ざって「ハッピーバースデイ」を歌ってくれたんです。

95年に彼らが『デフ・レパード・グレイテスト・ヒッツ』を出したときにも取材があったんですが、取材場所はなぜかインドネシアのジャカルタ。彼らが所属していたポリグラムのコンベンションみたいなものがジャカルタで開かれて、そのタイミングでちょうどリリースがあったデフ・レパードがアコースティックライブをやるという催しがあったんです。でも僕は1泊3日で日本へ帰らないといけなくて、そのライブは取材の翌日に組まれていたので、僕はそれを観ずに帰国することになっていました。そうしたら、インタビュー終了後の部屋にメンバーたちが僕の部屋に集まってくれて、即席のアコースティックライブをやってくれたんです。たしか「トゥー・ステップス・ビハインド」を歌ってくれたのかな。

彼らに初めて対面取材したのは『アドレナライズ』完成直後のことでした。スティーヴ・クラークが亡くなり、リック・アレンが片腕を失い、ヴィヴィアン・キャンベルが加入するタイミングでした。なんでせっかくの初対面の機会なのにそんなに重い話をしかも通訳不在で聞かなきゃならないんだ、という気持ちもありましたけど、その時も彼らやバンドを取り巻く関係者の気遣いを感じたし、そのおかげでしっかり話をすることができて、彼らとの関係はそこから始まったんです。ことにジョー・エリオットはこちらに踏み込んできてくれる人というか、自分からいろいろと話してくれる。しかも年齢的にも近くて音楽的な好みも似ているんで、世間話みたいに盛り上がるんですよ。

フリーランス転身後は久しく取材の機会がなかったんですが、10年以上ぶりに取材をすることになった際も、彼は普通に「ハーイ!」と挨拶してくるんですよ。僕のことなんて忘れてるんじゃないかと思って「10年ぐらい会ってないけども?」と言ったら、「嘘つくんじゃねーよ」みたいなことを言われましたから、彼にしてみたらそんなに会ってない気はしてなかったんでしょうね。



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