ローリングストーン誌が選ぶ「歴代最高の500曲」

5位→2位

5位 ニルヴァーナ「Smells Like Teen Spirit」(1991年)
WRITER(S):Kurt Cobain

ベーシストのクリス・ノヴォセリック、ドラマーのデイヴ・グロール、ギターヴォーカルでソングライターのカート・コバーンの3人が、ワシントン州タコマの物置で録音した「Smells Like Teen Spirit」のブームボックス用テープを、プロデューサーのブッチ・ヴィグが初めて聴いたのは1991年初頭のことだった。その音質はお粗末そのものだったという。バンドのメジャーデビュー作となる『Nevermind』をプロデュースすることになっていた彼は、その曲がシアトルのアンダーグラウンドのバンドをメインストリームに押し上げ、極めて繊細でインディーカルチャーの信奉者であるコバーンをスーパースターへと変貌させるとは思いもしなかった。

「『ハロー、ハロー』っていうパートと、コード進行だけは辛うじて聞き取れた」。ヴィグは後年にそう語っている。「でもとにかく音が悪くて、曲の全体像はまるで掴めなかった」。コバーンは同曲について、お気に入りのバンドであるピクシーズが得意とする静と動の対比という手法を借用し、「究極のポップソングを書こうとした」と語っている。また染み入るようなフックには、彼が崇めるジョン・レノンからの影響が見て取れる。ヴィグはコバーンについて「パンクの怒りと疎外感という、よくある矛盾を抱えていた」と語っている。「その一方で、彼は脆弱さを孕んだポップのセンシビリティも備えていた。『Teen Spirit』における彼の声のトーンには、その脆さがはっきりと現れている」

悲しいことに、ニルヴァーナの最後の全米ツアーが行われた1993年末の時点で、コバーンは同曲を毎晩プレイしなくてはならないことを苦痛に感じていた。「俺はあの曲と同じか、それ以上の出来の曲をたくさん書いてる」。彼はそう主張していた。しかし実際には、ロックンロールの定義を一瞬のうちに変貌させ、歴史を永遠に書き換えた曲など皆無に等しい。



4位 ボブ・ディラン「Like a Rolling Stone」(1965年)
WRITER(S):Bob Dylan

「俺は正真正銘の名曲を書き上げた。あっという間に」。1965年6月、ボブ・ディランは自身の最高傑作である曲をレコーディングした直後にそう語っている。この時の彼の言葉は「Like a Rolling Stone」の革新性とプロセス、あるいは当時24歳になったばかりだった天才ソングライターの資質をこの上なく端的に示している。

ノート20ページと6ページをそれぞれ消費した2度の作詞セッションから生まれた長尺のヴァースについて、彼はこう語っている。「リズムに乗るように、気に食わないものをただ書き殴っていった。正直な思いをはっきりさせるために」。6月上旬の3日間、ディランはニューヨーク州ウッドストックにある自宅でそれらに磨きをかけ、一歩も退かないという決意に満ちたコーラス、そして芯を貫くようなメタファーと簡潔な真実に満ちた4つのヴァースを生み出した。

ニューヨークにあるColumbia Record所有スタジオでレコーディングに臨む前に、ディランはポール・バターフィールド・ブルース・バンドのギタリストであるマイク・ブルームフィールドをウッドストックに呼び寄せ、彼に曲を覚えさせようとした。「彼はこう言った。『B.B.キングみたいなブルースはいらない』」。ブルームフィールド(1981年に他界)は当時そう語っている。「『君に求めてるのはまるで違う何かだ』。そう言われたんだ」

ディランがフォークのルーツと様式を思うがままに捻じ曲げたように、「Like a Rolling Stone」のメッセージと革新性はポップスの概念を変貌させた。音源としては彼のパフォーマンスの中でも最高の出来に違いないそのヴォーカルで、ディランは自分が生み出すあらゆるものがロックンロールであることを証明した。「あの曲は俺の最高傑作だ」。彼は1965年末にそう断言しており、その事実は今でも変わっていない。



3位 サム・クック「A Change Is Gonna Come」(1964年)
WRITER(S):Sam Cooke

アメリカが生んだソウルシンガーの先駆けであり、同国で最も成功しているポップアクトの1人(1957年以来18曲をトップ30に送り込んでいた)だったサム・クックは、1963年にボブ・ディランの「Blowin’ in the Wind」を聴いて衝撃を受けると同時に、クリエイティビティが強く刺激されるのを感じた。ディランが生んだそのアンセムに、彼は挑戦めいたものを感じ取った。クックは考え込みながらこう口にしたという。「これを白人の若者が書いたっていうのか?」

1964年1月30日にレコーディングされた、オーケストラを起用したレナ・ホールによるゴージャスなアレンジも光るクックからの回答「A Change Is Gonna Come」は、その制作前に経験した出来事を一人称で描いた、彼にとってかつてなくパーソナルな内容だった。3番目のヴァースで描かれているのは、クックと彼の取り巻きが1963年10月8日にツアー先のルイジアナ州シュリーブポートで、モーテルにチェックインしようとした際にトラブルを起こしたとして逮捕された時のことだ。また最後のヴァースには、同年6月に起きた生後18カ月の息子ヴィンセントの溺死という悲劇がもたらした心の傷の深さが克明に表れている。「もう生きていけない そう思ったこともあった」

同曲がレコーディングされた日から約1年後の1964年12月11日、クックはロサンゼルスのモーテルで銃撃され他界した。その2週間後にリリースされた「A Change Is Gonna Come」は、クックからファンへの最後の贈り物であると同時に、アフリカ系アメリカ人公民権運動のアンセムとなった。



2位 パブリック・エネミー「Fight the Power」(1989年)
WRITER(S):Carlton Ridenhour, Eric Sadler, Hank Shocklee, Keith Shocklee

チャック・Dはかつて、「Fight The Power」をピート・シーガーの「We Shall Overcome」になぞらえた。「『Fight the Power』は人々を鼓舞する音楽の力とレガシーを讃える曲だ」。彼はそう語っている。映画監督のスパイク・リーは当初、白人至上主義への抵抗を描いた映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』の主題歌の提供をパブリック・エネミーに依頼していた。チャックとグループのプロデューサーだったボム・スクワッドは、アイズレー・ブラザーズのファンキーな「Fight the Power」を下敷きにしつつ、新たな時代のアンセムを作ろうとした。

約5分間の土臭いブレイクビーツとクラリオンを思わせるホーンのサンプルが光るトラックに乗せて、チャック・Dと彼の相棒フレイヴァー・フレイヴは人種をめぐる価値観の革命を掲げた。「俺たちの発言の自由とは死を選ぶ自由のこと」という逆説的事実をブラック・プライドを持って提示し、「俺のヒーローの大半は切手になっちゃいない」といったラインに象徴されるように、2人はアメリカに生きる人々の価値観の再考を促した。リーのヴィジョンと見事に一致し、登場人物のレディオ・ラヒームのブームボックスから絶えず流れ続ける「Fight The Power」はインスタントクラシックとなった。

「あれはパブリック・エネミーとスパイク・リーが生んだ歴史的瞬間だったと思う。あの曲は黒人のコミュニティ内に眠っていた、マーティン・ルーサー・キングやマルコム・Xが牽引した60年代の革命のエネルギーを目覚めさせた」。ボム・スクワッドのハンク・ショックリーはかつてそう語っている。「あの曲はヒップホップのコミュニティ全体に、音楽が持つ力を自覚させた。そして本物の革命が始まったんだ」


Translated by Masaaki Yoshida

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