甲斐バンド、デジタルとアナログの狭間でもがく80年代初頭を振り返る

漂泊者 (アウトロー) [Live] / 甲斐バンド

これぞライブバージョンという1曲ですね。ギターは田中一郎。両国国技館をコンサートに使った最初のバンドが甲斐バンドですが、NHKホール、武道館二日間、花園ラグビー場なども甲斐バンドが初めてコンサートに使った例です。1982年のアルバム『虜-TORIKO-』、1983年の『GOLD/黄金』、1985年の『ラヴ・マイナス・ゼロ』。その間に、1983年の野外ライブ「BIG GIG」もありましたが、その話はまた来週です。



田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」、甲斐バンド栄光の軌跡Part3。1970~1980年代にかけての新しい時代を切り開いた栄光のロックバンド・甲斐バンドの12年間を辿っております。今週は1980年から1982年までお話しました。今流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

1980年代というのは音楽を取り巻く環境も激変した年でした。1978年、1979年くらいかな? デジタルという方法がレコーディングの現場で取り入れられるようになった。演奏の中でもコンピューターが占めるようになってきた。1980年の年間総合アーティストセールスの一位はどなただったか覚えていらっしゃいますか? YMOですよ。2位が引退で日本中を沸かせた山口百恵さんです。彼女を抑えてYMOが年間アーティストセールス1位なんです。YMOは、コンピューターやデジタルを使って一番アナログと思われていたダンス・ミュージックをやろうとした人たちでした。甲斐バンドは、デジタルを使いながらそれをもっと肉体的な音楽にしようとした。これがYMOとの決定的な違いだったと言っていいでしょう。その舞台がニューヨークでした。色々な形で時代なりの格闘があったと思いますけど、デジタルとアナログ、ロックと肉体という最も困難な闘いを挑んだのがこの時期の甲斐バンドだったと改めて思いました。最前線にいて誰も踏み入れたことがない道を進んでいたバンドでありました。今週で今までの12年間のうち、9年間を辿ったことになります。来週は1983年から1986年、最終章です。


現在は入手困難な「甲斐バンド写真集」と甲斐バンド花園ラグビー場野外ライヴのステージを写したブックレットを手にした田家秀樹



<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

Rolling Stone Japan 編集部

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