甲斐バンド、デジタルとアナログの狭間でもがく80年代初頭を振り返る



同じタイトルのフランス映画がありました。でもこの曲の舞台はフランスではないです。地下室というのは、福岡・博多のライブ喫茶、フォーク喫茶・照和が舞台だったという話を聞いたことがあります。よく骨太のロックバンドという言い方をしますが、骨太とはなんでしょう? 時代の新しいリズムや要素を取り入れながらも、バンドの骨格が揺るがない。その都度実験的な要素を取り入れながら、時代を疾走する。甲斐バンドの12年間はそういう時間だったと思います。

1970年代後半から1980年代初頭にかけて、レゲエとかスカのリズムが台頭してきたわけで、日本のCMソングでもイギリスのスカのバンドが登場する時代が来ました。でも、この「地下室のメロディー」のようにスカを取り入れながらも、バンドらしさがガッチリあるというケリの付け方。一つ一つ、時代に対峙しながら答えを出していくという例だったと思います。

1980年に『ビューティフル・エネルギー』、『漂泊者(アウトロー)』というシングルを出し、初の武道館ライブアルバム『100万$ナイト』を出しました。1980年末には、体育館ツアーというものがありましたが、体育館をツアーとして結んだロックバンドは、甲斐バンドが初めてだったと思います。当時はこれをスタジアムツアーと呼んでいたんですね。もちろんドームができる前ですし、球場コンサートを経験しているのは矢沢永吉さんと西城秀樹さんしかいなかった。順番は西城さんが先ですね。1980年12月の武道館で逝ってしまったジョン・レノンのためにと言って、「100万$ナイト」を披露して1980年にケリをつけて1981年に入りました。

1981年9月、花園ラグビー場での公演がありました。1981年11月に8枚目のアルバム『破れたハートを売り物に』が出ました。この1981年の武道館二日間コンサートのあと、ライブ活動を半年間休止してレコーディングに専念して新しい扉を開けます。そういう最も劇的に1980年代を迎えたバンドが甲斐バンドだったと言い切っていいでしょう。彼らは1982年2月に、トラックダウンのためにニューヨークへ向かったんですね。1982年11月発売のアルバム『虜-TORIKO-』から、「ナイト・ウェイブ」。

Rolling Stone Japan 編集部

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