高田渡のカバーアルバム『コーヒーブルース』、高田漣と父子の思い出を振り返る



田家:1972年のアルバム『系図』のタイトル曲です。詞が三木卓さん。漣さんは、これを渡さんの詞だと思っていらしたと。

高田:そうですね。この曲に限らず、子供ながらにフォークシンガーというのは自分の詞を歌ってるものだと思っていたんですけど、ある日母に言われてショックでしたね。あれ? 自分のことを自分で歌う人々じゃないんだ、という驚きがありました。

田家:でも詞の内容は渡さんのことだと思って皆聴くでしょう。

高田:そうですね、今でもそうやって誤解されている方も多い詞だと思います。

田家:1週目でも語っていらしたように、どんな詩人の詞でも結局彼のものになってしまういい例かもしれませんね。

高田:高田渡が歌いたいと思う歌詞は、どこか自分で重なる部分があるということなんだと思いますね。

田家:この「系図」は細野さんの存在感が強いアルバムなんですが、その話この後にまた改めてお聞きしようと思います。



田家:この曲はステージでご一緒に演奏されたりしていたんでしょう?

高田:そうですね。今でもよく覚えてますけど、父がこの曲を初めて歌ったのが、何周年かの記念の時で。当時「歌うシーラカンス、高田渡は新曲を歌うのだろうか?」ってチラシに書かれていたんですよ。この曲はその時に初めて披露したんだと思うんですけど、誰も新曲だと気づかなかったんです。今までの曲と何ら変わらかなったので。それくらい完成されていたというか、気がついてみるとこの曲が高田渡の晩年の傑作、ひょっとしたら生涯通じてみても代表作の一つなんじゃないかなと思います。

田家:そう思う理由はありますか?

高田:この曲の作詞は菅原克己さんなんですが、実は父と菅原さんは因縁というか云われがありまして。高田渡は若い頃から、この菅原さんの詞の「ブラザー軒」を歌にしようということはトライしていたんですよ。ずっとそれができないままでいて、菅原克己さんのお弟子さんの中に父を旧くから知っている方もいて、「なんで渡ちゃんは菅原克己の歌を歌わないんだ」と言われたことがあったらしくて。父はそのことに対して、珍しく怒ったらしいんですよ。それくらい菅原さんの詞を歌にしたいという思いはあったらしいんです。ただ、若かりし頃の高田渡には、あの詞の世界観が早かったんじゃないかなと思って。自分がある種の主人公であり、幽霊の父親であり、年老いた主人公でありと、実年齢が追いついてようやく自分の中で歌になったというか。ともすると、他の高田渡の歌の多くは、若かった父が背伸びして老成している気がするんです。ただ、「ブラザー軒」を出した時にはそれがやっと追いついたというか。だから、本人にとっても歌に対して思い入れがあったと思うんですよ。だからすごく高いアベレージで、本人が入り込みすぎて歌えなくなってしまうんですね。どこか落語の「芝浜」に近い世界というか、高田渡が歌に捉われちゃうという意味でも興味深い曲でしたね。

田家:菅原克己さんは、戦時中に反戦運動で投獄されていた方で、ブラザー軒も仙台に実在の洋食屋だったと。

高田:菅原さんは調布に住んでいらして、高田渡と近い距離感にいたんですよ。あまり言われない話なんですけど、父がすごく尊敬していた金子光晴さんも武蔵野にいらしていたりとか。どこか自分の近くにいた方というのも関係しているような気がしまして。菅原克己さんのこともずっと気にしていらしたんです。晩年に父が遺した言葉の中で、新たに作りたいアルバムの中で歌いたいと言っていたのが菅原克己さんの詞なんですね。ようやく菅原さんの詞に自分が手をつけられ始めた時に亡くなったんだと思います。

田家:やりたいことがまだたくさんあったんですね。そういう中で、次の曲も、渡さんも漣さんも好きだった一曲をお送りします。

Rolling Stone Japan 編集部

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