高田渡のカバーアルバム『コーヒーブルース』、高田漣と父子の思い出を振り返る



田家:この曲は他と雰囲気が随分違いますね。

高田:父がすごい好きだったフェデリコ・フェリーニの映画みたいなイメージで、せっかくだから一曲くらいストリングスとか入ってるアレンジをしてみたいなと思ったんです。

田家:さっき17歳の話も出ましたが、渡さんの17歳の日記『マイ・フレンド: 高田渡青春日記1966ー1969』の中でも、彼がバンジョーやキーホルダーを作ったという話もありましたもんね。

高田:父も自分なりに模索して音楽に没頭し始めようとしている頃ですからね。僕も読んでいて、変な話、僕の中には子供の頃から知っている高田渡しかいないわけで。高田渡にも青年時代があった、読んでてそこがすごくグッとくるところではありましたね。

田家:父にもこういう17歳があったんだと。

高田:それも自分が思っていたよりも果敢というか。楽器を自分で作ろうとするし、ピート・シーガーにも手紙を書こうとするし。晩年の高田渡からすると、想像もつかない無鉄砲な若さがまだあったんだなと思いましたね。

田家:フォークソングのことを知りたいからと評論家の三橋一夫さんの家に行ったり、添田唖蝉坊について教えてと言ってみたり。それは晩年とは違う若さなんでしょうね。

高田:そうですね。読んでて、ようやく高田渡という人の語られなかった若い頃の部分が見えた気がしましたね。

田家:書き残さないと語られないんでしょうね。

高田:でも、冗談でよく父をよく知る人が話してましたけど、今回出した写真集は父も喜んだと思うんですよ。だけど、日記に関しては、きっと彼が天国か地獄で「なんてことをしてくれてんだ」って言ってたに違いないと思いますよ(笑)。

田家:写真集は喜んでるんでしょうね。

高田:そうですね。なのでちょっとだけ親孝行したつもりですが、日記に関してはどこかに呪いが来てるんじゃないですかね(笑)。

田家:でも、日記のおかげで分かったこともたくさんありますからね。漣さん自身は洋楽少年だったわけでしょう?

高田:まさに。小林克也さんのラジオ番組「Best Hit USA」をいつも聴いているような。でも普通の当時の若者でしたね。

田家:でもそういう音楽を聴いていると、お父さんのやっている音楽はちょっと違う物だと思いませんでした?

高田:洋楽だけじゃなく、当時の歌謡曲とかも聴いていたんですよ。ただ、それと高田渡らがやっている音楽は違うものと考えていたので、その二つが当時はつながりはしなかったですね。だから、テレビで大滝詠一さんや細野晴臣さんのYMOや松本隆さんのお名前を見ても、父が一緒にやっていた方というのはどこか繋がらないままでしたね。そういう方たちというのは1970年代から父と一緒にやっていた方で、今となって考えると、そういう音は繋がってるんだと思えますけど、当時は全然違う別の世界に見えましたね。かたや華やかな世界、かたやじめっとした世界(笑)。

田家:それでは次の曲をお聞きください。高田漣さんで「系図」。

Rolling Stone Japan 編集部

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE