高田渡のカバーアルバム『コーヒーブルース』、高田漣と父子の思い出を振り返る



田家:これもライナーノーツにお書きになっていましたが、漣さんは幼稚園の時にマンドリンの絵を書いてそうですね。

高田:そうですね。マンドリンやバンジョーの絵ばかり描いていましたね。

田家:身の回りにいつも楽器があるお子さんだったんですね。

高田:逆にいうと、楽器や音楽家以外がほとんどいないような世界にいたので。小学校になって友達の家に行くまで、自分の身の回りにいる髪が長くて靴もろくに履いていない、そういうヒッピーみたいじゃない人たちが普通なんだと。世の中のお父さんはメガネをかけて新聞を読んで、毎日会社に行く人たちなんだっていうのをその時に初めて知ったくらい、ある種の劣悪な環境で育ちましたね。

田家:僕も当時そういう格好していて、人のことは言えないんですが(笑)。

高田:たぶん子供の世界って多かれ少なかれそうだと思うんですよ。お肉屋の子供がずっとお肉に囲まれて育つように、僕にとってはそれが音楽の世界だったわけで。今こうやってミュージシャンになって、皆さんが僕の子どものころを振り返ると、特異なケースに思われるかもしれませんが、自分にとってはごく当たり前の世界というか、職人の子供が職人になったみたいな部分はありますね。

田家:子供の頃はバンドごっこをやっていたそうですね。

高田:これは父の意図もあったかもしれないですけど、楽器のおもちゃが多かったんですね。本物の楽器もあるんですけど、恐らく本物の楽器は触られると困るじゃないですか(笑)。だから、触られないようにする最善の手立てはおもちゃの楽器を与えることなんですよ。身の回りにおもちゃの楽器がたくさんありまして、当時僕は太鼓が好きだったんです。なので、太鼓を並べてドラムセットみたいにして、近所の友達を連れてバンドごっこをしていましたね。

田家:打ち上げごっこもしていたとか(笑)。

高田:バンドごっこは前菜ですね。バンドごっこをやったあとは、自分が住んでいたアパートの台所でやるんですけど、その後にバンドごっこで観客役だった人とは別の部屋を用意して、そこでジュースが用意されていて乾杯して打ち上げごっこが始まるんです。その一連の動作が、子供が見ている父親の日々の営みだったんでしょうね。

田家:その時からバンドリーダーだったんですね。

高田:当時から今と大してやってることが変わらないという。悲しいですけど(笑)。

田家:17歳の時に初めてステージに立ったのは吉祥寺のライブハウスと。

高田:そうです。吉祥寺の「のろ」っていうお店で毎年やっていたんですけど、色々な方が夏に集まってライブをするんです、そこで父が出るはずだったんですが、僕もその頃に音楽に興味があって照明のお手伝いをしていたんです。その年に父が最初の大きな入院をしてライブに出れなくなりまして、中川イサトさんが「本当は最後に渡が出てきて歌うはずだったんですけど、この責任は息子に取らせます」って言って急に呼び出されて。ええ! と思いながらも、照明席からステージに行って、エレキギターを渡されて弾いたのが最初でしたね。それが夏休みの8月最後の週の日曜日だったんですよ。新学期になって9月の最初のあたりに西岡恭蔵さんのアルバムで弾いてデビューするんですけど、それは事前に決まっていて。自分の中である種の臨戦体制だったので、なんとなくステージに上がったのはいい度胸試しだという感じがありましたね。

田家:そんな話を次の曲のライナーノーツでお書きになっています。アルバム『コーヒーブルース』から「ひまわり」。

Rolling Stone Japan 編集部

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