ブラーのデーモン・アルバーンが語る、トニー・アレンとアフリカ音楽から学んだこと

「人生が変わった」トニーがもたらしたもの

90年代を通じてブリットポップの顔役であり続けたデーモンが、アフロビートのレジェンドの知己を得るきっかけとなったのは、ブラーの2000年のシングル「Music is My Radar」だった。両親の影響で幼少期から欧米圏外の文化に親しんで育った彼は、当時アフロビートにのめり込んでいたことから、何の気なしに曲の中でトニーを讃えて“彼は僕を踊らせる”と歌った。当のトニーはそれまでブラーというバンドの存在すら知らなかったが、自分が歌詞に登場する曲があると聞き及んで興味を抱き、デーモンとコンタクトを取るのだ。

以後、意気投合したふたりは様々な形でコラボレーションを重ねるわけだが、これと同じ頃にデーモンは、英国のNGOオックスファムに招待されてマリを訪れ、現地のミュージシャンたちとソロ・アルバム『Mali Music』(2002年)を作るなどし、さらにアフリカン・ミュージックに傾倒。欧米のミュージシャンとアフリカ各地のミュージシャンを集めてライヴ・パフォーマンスやアルバム制作を行なう“アフリカ・エクスプレス”を主宰し、マリやアルジェリアのアーティストの作品をプロデュースしたりと、トニーの力を借りながら多岐にわたる活動を通じて、アフリカン・ミュージックの偉大さを広く知らしめてきた。



―あなたとトニーの関係の始まりは「Music Is My Radar」でした。それまでのブラーには無いアフロビート由来のリズムを消化した曲で、驚かされたのを覚えています。

デーモン:うん。あの曲を書いて、本当に良かったと思う(笑)。マジな話、あの曲なしにはトニーに会えなかったわけで、僕のその後の人生は全く違うものになっていたんじゃないかな。ゴリラズもこんな風に発展しなかったかもしれないし、ほかの色んなプロジェクトも生まれなかったかもしれない。こういうことって、それが自分の全人生にどれほど大きなインパクトを与えるのか全く予期しないで、何気なくやっていたりするんだ。だからこのストーリーの教訓は、「どういう結果になるのか行動を起こす前によく考えること」だね(笑)。でも何よりも大切なのは、常に正しい動機で物事に取り組むってこと。つまりピュアな動機だよ。時には自分が望んだ結果に辿り着かないかもしれないけど、ピュアで正しい動機を携えて旅立てば、必ずマジックが起きるんだ。


2002年にマリを訪れたデーモン・アルバーン

―そしてあの曲のリリースと前後して、あなたは初めてマリを訪れています。当時アフリカに目を向けていたのはなぜだったんでしょう?

デーモン:ひとつの理由があるというより、たくさんの要素が連なっていった感じなんだよね。あの曲を書き、トニーと出会って、オックスファムの招待を受けた。ただ僕としては、親善大使としてマリに行くのはご免だった。そういうことには興味が無いんだよ。ほら、大英帝国の最後の燃えかすを引きずっているみたいで(笑)、うまく言えないけど、間違っているような気がした。ただ、アフリカン・ミュージックをものすごくたくさん聴いていたのは事実で、そのきっかけはオネスト・ジョンズとの出会いだったんだよ(筆者注:オネスト・ジョンズはロンドン西部にあるインディ・レコード店。欧米圏外の音楽を含む幅広いセレクションで知られる。デーモンはオーナーと親交を深めて、2002年に独自レーベルを共同設立。世界各地のアーカイヴを掘り起こした数々の名コンピを送り出している)。

だからオックスファムには「現地のミュージシャンと会うことには興味がある」と伝えたのさ。そうしたらあっさりと望みを叶えてくれたんだ。孤児院とか浄水場の視察はしなくていいと(笑)。もちろんそれも重要なんだけど、僕はミュージシャンであり、音楽を介してなら善意をもって貢献し、現地の人と関わることができる。つまり完全にピュアでいられる。そんなマリでの体験がアフリカを巡る僕の旅、そしてそれ以降起きたあらゆる出来事の始まりであり、トニーはその過程において指導者かつ案内人だったのさ。彼は音楽の話だけでなく、アフリカの哲学や礼儀についても教えてくれたよ。礼儀って、異国を訪れる時には本当に重要なんだ。僕がそれを最初に悟ったのは、日本に行った時だったんじゃないな。初めて訪れる場所ではその国特有のエチケットを理解し、カルチャーについてセンシティブでなければ、いい形でコミュニケートできないから。

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