高田渡作品をベルウッド・レコード創設者と振り返る、老成した歌は若者にしか歌えない

田家:当時のことを渡さんは『バーボン・ストリート・ブルース』で次のように書いています。「ずっと親しくしていたディレクターが、キングレコードからフォノグラムに移ったため、そのディレクターから"そろそろ出しませんか"という話があり、"じゃあやりましょうか"と答えたら、いっそのことロサンゼルスに行って録音しようということになったのである」と。

三浦:はっぴいえんどと全く同じサンセットサンドスタジオ、同じエンジニアのヴァン・ダイク・パークスで。当時はロック専用のスタジオってあまりなかったんですよ。そういうスタジオなので渡さんもいい音になるんじゃないかと思って。

田家:高田渡さんがロサンゼルスに行ったらどうなるか、イメージはあったんですか?

三浦:頭の中では、ライ・クーダーをイメージしてましたね。

田家:細野さんと中川イサトさんは三浦さんの方で?

三浦:渡さんとイサトさんは一体ですから、そこに細野さんを入れるというのは自分の中で思ってました。

田家:なるほど。そうしたらある時に山岸さんに会ったと。

三浦:バッタリ。そこで山岸さんと知り合って、僕はフォノグラムでのソー・バッド・レビューに発展していくんですけどね。

田家:当時、渡さんが書いていた「親しくしていたディレクターがキングレコードからフォノグラムに移った」と。移ったというのはなぜだったんでしょう。

三浦:今だから言えるんですけど、当時吉田拓郎さんがソニーで100万枚のヒットを出していて、拓郎さんの契約が切れるから新しいレコード会社やらないかって六文銭のマネージャーの沖山さんから振られたんですよ。その話を聞いて面白いなと思って拓郎さんに言ったら、井上陽水を誘うのも条件だっていうことで。小室等さんが誘ったって皆は思ってるんですけど、実は僕が井上陽水さんのマネージャーの奥田さんに会って契約のことを訊いたら、ビクターとやることになってると言われて。それが頭にあったので、もしかしたら誰か誘えば井上さんも来るんじゃないの? って言ったら、小室さんが誘ったんです。

田家:それがフォーライフレコードになっていくんですね。ベルウッドも評価が出来上がったし、たくさんアーティストも育っていい作品も残ったし、次に行ってみたいと思った時にそういう話があったと。

三浦:そうですね。でもレーベルカラーは違うから、僕は吉田さんのレーベルは別の形で作って、親会社がキングなんでその下に子会社として作ろうと思ったら、当時は五社協定もあって外部にレコード会社は作れないし、アーティストを引き抜くなんてとんでもない、という時代だったんです。引き抜いたわけではないんですけどね。それでキングレコードではできないって言われて、じゃあ他でと思ったので僕はフォノグラムに行って。そのレコード会社を作る時に、レコード協会は発売もプレスも引き受けないって言われたので、ユイの後藤由多加さんとどうしようかっていう話になって。後藤さんがフジサンケイの石田達郎さんの息子さんとお知り合いだったので、そこからは後藤さんが進めていったんです。

田家:それでポニーキャニオンが販売するようになったと。このアルバム『FISHIN’ ON SUNDAY』は色々な思い出があるということで、タイトル曲も選ばれています。お聞きください「フィッシング・オン・サンデー」。

Rolling Stone Japan 編集部

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