ベルウッド・レコード設立者と共に、70年代初期の高田渡を振り返る



田家:1969年のアルバム『汽車が田舎を通るそのとき』にも収録されていましたが、この『系図』の中では唯一、自身で作詞作曲を手掛けております。この曲を選ばれたのは?

三浦:小室さんが、高田渡さんのことを日本で一番歌の上手い一人だという言い方をするんですよ。そこで名前を出すのが、田端義夫と高田渡。僕にはよく分からないんだけど(笑)。話すように歌うとか、演技もそうだけど演技しない演技って一番いいって言われるじゃないですか。歌も歌わない歌が一番いいと僕は思うんです。小室さんも僕も合唱団出身だから、歌うことに対して恥ずかしい気持ちもあって。ああいう語るように歌えるっていうのは一種の憧れなんですよね。

田家:三浦さんは早稲田のグリークラブ出身で、業界内にもいっぱい後輩がいると。

三浦:それ言われるのがすごく恥ずかしいんですよ(笑)。でも、ああいう語るように歌えるのっていいよね、と小室さんと言っていて。それの代表的な曲だと思います。

田家:この「鉱夫の祈り」は、10代の時に、貧富の差や働く人と働かせる人という社会の構造に対して歌っているわけで。そういう時代ではありましたけど、感受性が強い人ですよね。そういう高田渡さんの視線についてはどう思われました?

三浦:その頃は共産党系の印刷会社でアルバイトをしていて、仲間とそういうメッセージソングの話もしたと思うんです。漣ちゃんが編集した渡さんの17歳頃の日記本『マイ・フレンド: 高田渡青春日記1966‐1969』にも出てくるんですけど、ピート・シーガーとの手紙のやり取りとかあったりして。そういうプロテストソングを歌おうという決意とか書いてあったりするんですけど、17歳で大人が歌うような哲学的なことを歌うのは、ある種の天才なんじゃないかなと思うんですけどね。

田家:17歳とは思えないようなことを書いていますもんね。『バーボン・ストリート・ブルース』の中には「ごあいさつ」や「系図」の頃のことを、「自分の中のものを全て出し切りたいと思ってやっていた」、「シンガーとしてやっていけるかということよりも、こういうものを作りたいということだけで動いていた」と。

三浦:なるほどね。僕は幸い、小室さんとか細野さんとか色々な人の1stアルバムをやらせてもらったんですけど、1stアルバムはそのアーティストや作家の芸術性が一番出ると思ってるんですよ。そういう意味では、渡さんの『ごあいさつ』も渡さんのそういう部分が出たと思ってます。

田家:さて、ベルウッド三部作の三枚目、1973年のアルバム『石』の中から、三浦さんが選んだのはこの曲でした。

Rolling Stone Japan 編集部

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