高田渡はなぜカメラに惹かれたのか? 高田漣と共に振り返る

子守唄をうたえない親父達のために / 加川良

田家:この曲のレコーディング中のスタジオの写真がこの写真集にありますね。歌っていたのは、高田渡さん、中川五郎さん、村上律さん、中川イサトさん。加川良さんは曲を書いただけで歌ってません。で、合間に聞こえた泣き声が漣さんなんですよね。

高田:そうです。無理やり泣かされているというか(笑)。レコーディングの時の話は何度か聞いていたんですけど、この写真をちゃんと見たのも初めてでびっくりしました。こんなに残ってたんだなと。

田家:吉川忠英さんが生まれたばかりのご自身の赤ちゃんの声をアルバムに入れていたのを思い出しますね。髪の長い、決してまともな人生を歩いているとは思えない俺たちに子供が生まれたんだ、という色んな思いがあった時代です。

高田:僕はフォーク世代の中では比較的に早く生まれた方だったので、皆さん面白がってくれたというか。色々なところにも連れていってもらったし、一番遊ばれていたんじゃないですかね(笑)。

田家:そういう意味だと漣さんの幼少期の記録にもなってますね(笑)。

高田:本当ですね。子供の頃からスタジオとかにいたんだと思うと、改めてびっくりです(笑)。

田家:その話は最終週にまたお伺いしましょう。『マイ・フレンド』の1966年7月8日の日記にこんな記述がありました。「僕はもはやアメリカだけでなく、ソ連、ギリシャ、イタリー、ドイツ、フランス、スペインと世界中を回ってみたいと願って思っている。これを一生やってみるつもりだ」。その4日後の7月12日には「ソビエト、ハンガリー、ポーランド、オランダ、北欧三国も回るんだ」と。旅と音楽が一緒になっていたんでしょうね。今回の写真集も1972年のヨーロッパから始まってますもんね。

高田:そうですね。高田渡はある意味で音楽的に分かりやすく言うと、アメリカのフォークミュージックからの影響も色濃いし、実際そうやって見られることも多いと思うんです。でも、日記にも書いていますし自伝の中でも触れているのですが、若い頃からヨーロッパの音楽や文化に興味があって、実を言うと最初の段階からヨーロッパの方に目が向いていたんだなというのは思いました。写真集でも、高田渡が旅をしようと思った時にまずアメリカでも良かったはずなんですけど、ヨーロッパに行くというチョイスをしたというところが高田渡らしいなというのは、今改めて思いますね。実は父の音楽の原体験に、お兄さんがヨーロッパの民謡レコードを持っていたことがあって。僕もたまたま若い頃に父親と飲みにいった時に、たまたまベルギーかどこかの民謡がかかっていて、そういうヨーロッパの民謡を聞いた時に、実は僕が子供の頃に本当に影響を受けたのはこういう音楽なんだよって語ってたことがあって、そういうのが根っこにあったのかなと思いますね。

田家:そういう経験があったから、ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・ディランなどアメリカのものにも惹かれる土壌があったとも言えるんでしょうし。ロサンゼルスでレコーディングされた1976年のアルバム『FISHIN’ ON SUNDAY』がありまして、その写真も後半にあるので、その話はこの曲「魚つりブルース」の後にお伺いしましょう。

Rolling Stone Japan 編集部

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