高田渡はなぜカメラに惹かれたのか? 高田漣と共に振り返る

田家:なるほど。高田渡さんがどういう方だったのかを知る手がかりになるいい本が何冊も残ってます。2015年に出た『マイ・フレンド: 高田渡青春日記1966‐1969』というタイトルの、17歳から20歳の日記もまさにそんな本で。その中に漣さんが仰ったように、なんでフォークソングに惹かれたのか、自分の歌ってなんなんだろう? という自問自答がずっと書かれている。その中に、ピート・シーガーに手紙を書くといういい話がありました。

高田:本人からその話は聞いていたんですが、実際に手紙を書く過程やピート・シーガーからの返事があったりしましたからね。

田家:彼の直筆の手紙やピート・シーガーから返ってきたタイプ刷りの本物が載っていて、歴史博物館みたいでしたね。

高田:自分でもそれを見つけた時はびっくりしましたね。決して、父は色々なものをぞんざいに扱う人ではなかったんですけど、かといってそこまで物持ちが良い印象もなくて。あの辺の一連のものに関しては奇跡的に実家に残っていたので、ある種の奇跡のタイムカプセルみたいな状態でしたね。

田家:いい表現ですね。もっといい話があって、ピート・シーガーが日本に来た時に高田渡さんが会いに行ったら、彼が覚えていた。これは素晴らしい話だと思いました。

高田:日記の中では後年になると「俺はボブ・ディランやビートルズは好きじゃなかったんだ」と嘯いていますけど、実際に日記を見ると最初のうちは特にボブ・ディランが好きで。ただ早い段階で、ウディ・ガスリーやピート・シーガーを見つけ出して、たぶん父にとってピート・シーガーは本当に師匠というか、永遠の憧れだったみたいで。よく晩年の父は、小室等はピート・シーガーと仲良いんだってぶーたれてましたよ。絶対あいつより俺の方が好きだと思うんだけどって(笑)。

田家:ここで高田渡さんご自身の作詞の曲をお聞きください。1972年のアルバム『系図』の中から「鉱夫の祈り」。



田家:元々は『汽車が田舎を通るそのとき』に入っていた曲です。その時は作詞もご自分でされてました。

高田:そうですね。逆に言えばあのアルバムが自分の詩を集めた作品で、それ以降徐々に割合が減っていくんです。その辺に関してはあまり多くは語らなかったですね。

田家:でも、山之内貘さんに出会って、自分が書くよりも自分の思ってることや歌いたいことが言葉になってると思われたんでしょうね。

高田:なぎら健壱さんも仰っていたけど、不思議なのが高田渡が語りながら歌にすると、自然とその言葉が高田渡に憑依するというか。もしかすると知らない人の中には、高田渡の歌った曲の多くが他人の歌詞であるということに気づくまで時間がかかるかなというくらい、人の詩の中に入り込んで彷徨っちゃったというか。貘さんに憧れて、気がつくと彼みたいな人生を歩んで、という人だったんじゃないかなと思っていますね。

田家:貘さんの言葉が高田さん自身の人生になっていった。お聞きいただいたのは、1972年のアルバム『系図』の中から「鉱夫の祈り」でした。

Rolling Stone Japan 編集部

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