高田渡はなぜカメラに惹かれたのか? 高田漣と共に振り返る

高田:うちの母の家は茶道の家だったんですが、あの写真に写っているのはお稽古に使うような部屋で。

田家:そこにミュージシャンが泊まっていったとお書きになっていましたね。

高田:色々な若いミュージシャンが、父がいようがいまいが関係無く泊まっていました(笑)。実は母方の叔父が、当時京都でライブハウスをやっていたんですよ。その叔父を頼ってというのもあるんですけど、色々な方が泊まりに来て。シバさんなんかしょっちゅう泊まってましたね。

田家:それで色々なことが改めて分かったこともあるんですが、1969年に『バトコイア』という同人誌のような雑誌が出て。渡さん、岩井宏さん、中山容さん、有馬敲さんで作られていました。そのフォークコンサートが四条大宮のお寺で行われていた、ご実家の近くだったんですね。

高田:そうですね。京都の土地柄というか、詩人の中山容さんとか有馬敲さんとか父親たちの年代からすると少し年上なんですよ。ちょうどヒッピーとビートジェネレーションみたいな関係で。京都にたくさん進歩的な詩人の先輩方がいて、彼らが若い詩人のフォークソングをプッシュしてくれたんですよ。それが当時の京都のフォークシーンの豊潤さに繋がったというか。中山容さんとか有馬敲さんの影響は強いと思いますね。

田家:フォークソングに目覚めた時に、東京にいた評論家の三橋一夫さんのところにお伺いした話もありますが、この後にまたお伺いしましょう。続いて、1stアルバム『ごあいさつ』から「生活の柄」をお聞きください。



田家:当時の仲間が皆一緒に歌ったり弾いたりしているレコーディングです。歌詞を書いているのは、沖縄出身の詩人の山之口貘さん。写真集に沖縄の写真もありましたね。

高田:返還間もない沖縄に行けたのは本人とっても大きなことだったんだと思いますね。あまり南国的な雰囲気って似合わない人でしたけど、沖縄は好きでしょっちゅう行ってたみたいですね。

田家:沖縄フォーク村のコンサートで、なんで君たちは沖縄の言葉で歌わないんだと言ってしまってしらけられたっていう話を読んだことありましたよ。

高田:はいはい(笑)。昔自分がピート・シーガーに言われた言葉を言ったような感じですね。

田家:お父さんが亡くなって、佐賀に一回帰って、それから東京に来て定時制高校に通う一人暮らしの中で、山之口さんに出会うわけですね。『バーボン・ストリート・ブルース』の中になぜ彼に惹かれたのかを書いています。「原稿用紙に向かって頭をひねりながら書いた詩ではない。実体験に根ざした人々の生活、もっと泥臭くて生々しい世界が描かれている。これは僕の歌と同じなんだ」と。

高田:すごく衝撃的に感じたと思うんです。高田渡なりにウディ・ガスリーだったり、フォークソングを考えながらぼんやりと歌詞の内容を掴み始めていった時に、日本の詩人の中で自分が思っている世界を歌詞に書いている人がいるということが、ある種の励みにもなっただろうし。高田渡は割と早い時期から自分の歌詞を書かなくなるっていうのも、どこかその影響があるのかなという気がします。

Rolling Stone Japan 編集部

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