高田渡はなぜカメラに惹かれたのか? 高田漣と共に振り返る

田家:なぜ高田渡さんがカメラに惹かれたのか? 彼のエッセイ集『バーボン・ストリート・ブルース』の中にこんなフレーズがありました。「一本のギターから奏でられる音が人によって違うように、一台のカメラで映された写真も写す人によって全て違ったものになるから」。そういう写真ですね。

高田:自分たちが忙しい現代に生きていると、ともすると見過ごしがちな風景というか。何気ない瞬間を捉えていて、それが1970年代の景色なので今となってはかけがえのない、もうない景色もあるんですけど。こういう風に高田渡は世界を見ていたんだなと垣間見れる写真ですね。

田家:カメラを始めたきっかけも書かれていて、お兄様から払い下げてもらった6×6の大きなカメラだった。京都の街のスナップを写し歩いたところから始まっている。その頃に作った曲をお聞きいただきます。1969年発売1枚目のフルアルバム『汽車が田舎を通るそのとき』のタイトル曲「汽車が田舎を通るそのとき」。



田家:歌中の話し相手は、URCの当時の事務員だった。ご自分の生い立ちを語っております。1949年1月1日、生まれは岐阜県。17回忌に合わせて、もう1冊面白い本が発売になっておりまして。なぎら健壱さんの『高田渡に会いに行く』。お兄さまと最初の奥様と漣さん、佐久間順平さんとシバさんへのインタビュー。マニアックな本ですね(笑)。

高田:僕はすごく楽しく読んでいたんですけど、法事を文字化したような感じですね。一般の方にはどれくらい通じるんだろうと思いながら読みました(笑)。でもこの本で初めて知るようなこともありましたね。

田家:なるほど。『汽車が田舎を通るそのとき』のジャケット写真はお兄さんが書いている。来週と再来週はベルウッドレコードのプロデューサーだった三浦光紀さんなのですが、ベルウッドのマークもお兄さんがお書きになっているんですね。

高田:一番上のお兄さんが、元々絵描きを目指していたんです。そのお兄さんは長男なので絵描きを諦めて、しばらくの間父(高田渡)とは仲が悪かったりもしつつもお互い尊敬しあっているような、兄なんだけど父親代わりでもあり、理解者でもあるという存在でしたね。

田家:岐阜県の実家というのは元々材木商で資産家であり、お父さんはそれを食い潰したというようなことも書いていましたね。歌にもあったように8歳で母親を亡くして上京し、定時制高校に入って文選工、つまり印刷屋さんの活字を拾う仕事をしながらフォークソングに出会う。それも『バーボン・ストリート・ブルース』に克明にお書きになっています。そして、1968年にフォークソングをやるようになって再び京都に戻ってきた。写真集にはお母様の京都大宮のご実家の写真があって。

Rolling Stone Japan 編集部

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