村井邦彦とともにアルファミュージックの創設期を振り返る

田家:「翼をください」はシングルでリリースされましたが、アルバムは英語で、というのはどういう目算だったんですか?

村井:最初から外国で売ってやろうと思っていたんですよ。ですから、ロンドン録音の『Fly with Red birds』はイギリス人の友人のプロデューサーにやってもらって、当時ヒット作が多かったトニー・マコーレーという方もオリジナル曲を提供してくれて。どれかの曲、ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」かな? それはイギリスでシングル発売になってますね。残念ながら大きなヒットにはならなかったけど。アルファは、第一弾の赤い鳥、それから続いた「須磨の嵐」という前衛邦楽をやるんですけど、最初から海外市場を意識してずっとやり続けていたんです。それの積み重ねの極まったものがYMOのヒットになるわけです。

田家:先ほど名前が出た山上路夫さんとはどんなお話をされていたんですか?

村井:あまり作曲家、作詞家、あるいは作品というのが重要視されていない気がしていたんです。僕たちが子供の頃から聞いていた欧米の曲って色々な人が歌っていて。例えば「ナイト・アンド・デイ」なら、フランク・シナトラが歌っているけど、フランク・シナトラの「ナイト・アンド・デイ」とは呼ばずに、コール・ポーターの「ナイト・アンド・デイ」っていうわけですよ(笑)。だから村井邦彦・山上路夫の書いたなんとかっていう曲まで持っていきたいもんだね。じゃあ自分たちで音楽出版社作らないといけないんじゃないかな、というところから始まりました。

田家:小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』のエピソード1は1971年の話ですが、ここでカンヌのMIDEM、音楽出版見本市に「翼をください」のカセットテープを持って行って、皆に聞かせたという話がありましたね。

村井:その頃はね、カセットテープはまだないんだよ(笑)。当時の音楽出版社はカセットがないものだから、ダイレクトカットのディスクを持って歩いていたんだね。あるいはドーナツ盤とかLP。カセットはその翌年くらいにできたんですよ。

田家:その頃は「翼をください」を海外に売り込もうという意識があったんですね。

村井:なんでも海外に売ってやろうと思ってたんだよね(笑)。

翼をください / 赤い鳥

Rolling Stone Japan 編集部

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