村井邦彦とともにアルファミュージックの創設期を振り返る

(インタビュー)

村井:これはもうコロナと直結してますね。コンサートとか音楽ができないんです。ですから、いろいろ考えたんですけども、このアルファミュージックライブとも関連があるんですが、歴史を考えて。アルファミュージックを僕が作る前に何があったのか? 僕のメンターとも言える、こういう人がやっていることを僕もやりたいと思った人が、川添象郎さんのお父さん・川添浩史さんです。1913年生まれで僕より30歳くらい歳上ですね。僕は川添浩史さんを、高校一年から大学を出て2000年くらいまでの若い時期にしか見てないのね。今になって彼のやったことをずっと考えると、アルファの大元になったのは彼が考えてきたこと、やってきたことなんだなっていう風に思ってくるわけです。

田家:今仰った川添浩史さん、小説の中では紫郎さんという名前ですが、彼がパリに留学したのが1934年なんですね。川添親子がもしいなかったら、アルファミュージックは誕生していなかったと言えますか?

村井:言えますね。まず、僕が初めて外国に行ったのが1969年のパリなんですが、その時に川添浩史さんのお友達のエディ・バークレーというレコード会社の社長のところで仕事をしたんです。そこの会社から「My Way」という曲の音楽著作権を買ったんです。これがアルファの最初の音楽著作権ですからね。その後、1970年には川添浩史さんは亡くなってしまう。もし彼がご存命だったら、たぶんその後も一緒に仕事したと思うんです。レコーディングスタジオで、フランスの技術を使って日本で音源を作れないかということを、亡くなる寸前まで相談していたんです。

田家:1969年の4月から5月の期間には、加橋かつみさんがパリでソロアルバム『パリ1969』をレコーディングしました。川添象郎さんは先に向こうにいらして、村井さんのところに電話で遊びに来ないかと言われたと聞いているんですが、パリにどんなことを期待して向かわれたんですか?

村井:とにかく、それまで行く機会がなかったんですけど、彼から聞いてる話や本を読んでパリに興味はありましたから、これはいい機会だからぜひ行ってやれと思って。当時は作曲家として売れっ子でしたから忙しかったけど、全部の仕事を断って2ヶ月くらいパリで遊んでたわけですね。その最中に山上路夫さんと一緒に音楽出版社を作りたいという相談もしていたので、「My Way」の権利を取得したり。アルファミュージックっていう名前をつけたのもパリですよ。エディ・バークレーと契約するのに、会社の名前がないと困るから、なんでもいいから会社の名前をつけてくれってことで。川添象郎と相談して、アルファミュージックと名付けて契約したんです。

花の世界 / 加橋かつみ

Rolling Stone Japan 編集部

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