ジャイルス・ピーターソンが語る、ブリット・ファンクとUK音楽史のミッシングリンク

アンダーグラウンド発信による最初のムーブメント

―まずはあなたがブリット・ファンクに出会った頃のことを聞かせてください。

ジャイルス:少年時代はサウスロンドンに住んでいて、その後、自分が扱うことになる音楽に出会えたのは海賊ラジオ放送のおかげだと言えるね。国営放送だと僕が好きな音楽が聴ける番組が2本しかなくて、1つがBBC Radio 1の「The Robbie Vincent Show」(※1)、もう1つはCapital Radioのグレッグ・エドワース(※2)の番組だった。

※1:ロビー・ヴィンセントは70年代後半のイギリスにおけるソウル、ファンク、ジャズの最重要ラジオDJ。
※2:イギリスのソウル、ファンク系ラジオDJのパイオニアの一人。Capital Radioで1974年から14年間続けた「Soul Spectrum」は大きな影響力があった。

当時の同級生はみんな、ロックやポップ、それからニューウェイブ、一部の子はパンクを聴いていた。そんななかで、僕が13歳か14歳の時に、友だちのお姉さんがボビー・コールドウェルとか、キャメオ、アース・ウインド&ファイアーのレコードを持っていたんだ。それをきっかけに、音楽の神秘みたいなものにハマっていった。でも、当時ブリット・ファンクやジャズ・ファンク、ディスコをかけているラジオは非常にアンダーグラウンドなものだった。僕は海賊放送を聴いていくうちに、ライト・オブ・ザ・ワールドやハイテンションといった、アメリカの音楽をやっているイギリスのバンドの存在を知っていったんだ。

―なるほど。

ジャイルス:そして当時は気づかなかったけど、大人になって振り返ってみると、ブリット・ファンクはDJとライブのシーンが合わさっている最初のムーブメントだということに気づいたんだ。1978年以前にそういうムーブメントは存在しなかった。アヴェレイジ・ホワイト・バンドやゴンザレス、ザ・リアル・シング、サイマンデがいたにはいたけれど、彼らは「ライブ会場で演奏するバンド」以上の存在ではなかったんだ。それが1978年以降になって、バンドやDJたち、コミュニティがひとつのムーブメントに変わっていった。少年の頃はWeekender(週末のオールナイトイベント)に行って、一日中、DJもバンドも両方聴くことができた。最高だったよ。黒人も白人も、裕福な人もそうでない人も、一緒にイベントを楽しんでいた。当時のイギリスで、他にそんな場所はなかったよ。ブリット・ファンクがなかったら、今の僕はいなかった。

僕は少年のころから海賊放送やバンド、インディーレーベルを通して、この音楽が持つエネルギー、情熱、そしてコミュニティについて学んできたんだ。初めてターンテーブルを手にしたのは15歳か16歳の時。土曜日にスーパーマーケットのアルバイトで貯金して買ったんだ。それからレコード代を節約するために、レーベルに手紙を書いて、タダでレコードを送ってほしいと頼んでいたよ。その作戦が初めて成功したのはElite Records。彼らは僕にサンプルを送ってくれたんだ。そのホワイトレーベルには、サイドAにレベル42の「Sandstorm」、そしてサイドBにパワーラインの「Journey To...」が収録されていた。母親はいつも「なんであなたに無料でレコードが届くの?」って不思議がっていたけど、「だって僕はDJだから、みんな僕の番組で紹介してほしいのさ」って答えていたよ(笑)。そして16歳か17歳のころ、僕は裏庭で自分の海賊放送を始めた。その最初のゲストとして出演してくれたのがブルーイだったんだ。


パワーライン / レベル42「Journey To... / Sandstorm」のサンプル盤(画像はdiscogsより引用)

―ブリット・ファンクはどのようにしてムーブメントに発展していったのでしょうか?

ジャイルス:イギリスの音楽シーンは、ラジオだとBBCの「Radio 1」と商業放送局、メディアだと「NME」と「Melody Maker」、そして「Sounds」が権威をふるっていて、こうした団体の力がとても強かったんだ。そして、そのどれもがブリット・ファンクもブラック・ミュージックも扱っていなかった。だから、自分たちでムーブメントを作り出すしかなかったんだ。それはブリット・ファンクに限ったことではなくて、イギリスの音楽シーンでずっと起こり続けていたこと。だからイギリスの音楽シーンでは、2〜3年ごとに新しいムーブメントが生まれてきたんだ。ダンス・ミュージックはもちろん、ハウス、ジャングル、UKガレージ、グライム、ダブステップ、ドリルミュージックも、全部アンダーグラウンド発信で、海賊放送を使って広まってきたムーブメントだ。どれも自分たちのコミュニティのために、独自のプラットフォームを作っていた。そしてブリット・ファンクは、それをやった最初のムーブメントなんだ。独自の海賊放送を立ち上げ、イベントを開催し、「Black Echoes」や「Blues & Soul」といった雑誌も発行し、Caister Soul Weekender(※)やオールデイヤー(All-dayer:終日公演)のようなイベントもやっていた。

※1979年に始まったイギリスのソウル、ファンク系の老舗イベント。DJフォギー、クリス・ヒル、ロビー・ヴィンセントらがプレイした。

また、70年代のイギリスには、「Top of the Pops」という重要な音楽番組があったんだ。毎週木曜日に放送されていたチャート番組で、国民全員が見ていたぐらいの人気番組だった。チャートのトップ40から選ばれたアーティストがこの番組でパフォーマンスできたんだけど、僕が知っている限り、ブリット・ファンクを扱ったテレビ番組は「Top of the Pops」が初めてだ。ハイテンションとフリーズの楽曲がトップ40にランクインしたからね。なぜ彼らの音楽がチャート入りしたかというと、このムーブメントがそれだけ大きなものに成長したからなんだ。それは彼らの音楽がメジャーなラジオ番組で紹介されたからではない。アンダーグラウンドのシーンが、メジャーの力を借りなくてもチャート入りするほど、大きな力を持つようになったからなんだ。そして少年の僕は視聴者として「Top of the Pops」を見て、ハイテンションが「British Hustle」を演奏する姿を目にして「こんなに素晴らしい音楽があったのか!」と感動したんだ。あの時のことは、今でも覚えているよ。


「Top of the Pops」で「British Hustle」を演奏するハイテンション

―先ほどレベル42の名前が出ましたが、彼らは僕のなかでかなり売れたジャズ・ファンク、もしくはフュージョン系のバンドというイメージです。あなたがサンプル盤を手にした頃のレベル42はどんな感じだったんですか?

ジャイルス:当時はまだ、ただの新人バンドだったよ。(サンプル盤に収録されていた)「Sandstorm」が彼らの1stシングルで、インスト曲なんだけど、その曲をきっかけに僕は彼らを追うようになったんだ。彼らは「Sandstorm」をリリースしたあとにポリドールと契約した。メジャー・レーベルが新しい音楽を探し求めている時に発掘されたバンドで、たぶん(ブリット・ファンクで)メジャーと契約をしたのは彼らが最初だと思うよ。そして、「Love Meeting Love」や「Love Games」などをリリースして、Elite Records時代の楽曲も収録された1stアルバム『The Early Tapes』が発表されたんだ(1982年)。



ジャイルス:ちなみにEliteは『The Early Tapes』のホワイトレーベルを4枚制作していて、それは表には出回らなかったんだけど、最近僕の友人がDiscogsで11000ポンド(日本円で約170万円)の値が付けられているのを見つけたらしい(笑)。

―それはすごい!

ジャイルス:話が逸れたけど(笑)、レベル42は僕にとって重要なバンドだ。当時は一番熱いファンだった。(日本語で)“イチバン”ファンだよ(笑)。ライブのあとは、楽屋の近くで出待ちをしていたぐらいだったからね。ベースのマーク・キングをはじめ、キーボードのマイク・リンダップや、フィリップ・グールド、そしてバンドに頻繁に参加する黒人ミュージシャンとして重要な役割を果たしていたウォリー・バダロウ(※)のサインをもらうためにね。レベル42はどんどん大きなバンドに成長していって、さながらデュラン・デュランみたいになっていった。僕にとっても、当時のムーブメントの中で重要な位置を占めているバンドだよ。

※70年代末からアイランド・レコードのコンパス・ポイント・スタジオのお抱えミュージシャンとして活動。グレイス・ジョーンズを始め、当時の先鋭的な作品に深く関与。それらはラリー・レヴァンやフランソワ・ケヴォーキアンにヘヴィープレイされた。自身の名盤『Echoes』(1984年)は、後世のハウスやトリップホップなどに大きな影響を与えている。

Translated by Aoi Nameraishi

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