岡林信康が生み出した日本独自のロック“エンヤトット”

サムルノリ…熱い風… / 岡林信康 

(スタジオ)

田家:お聴きいただいているのは、1991年のアルバム『信康』より「サムルノリ…熱い風…」でした。ジャパルノリをやろうと思った。これで日本のリズムとして世界に出ていけると思ったと。西洋音楽からの脱却というのは、1970年代に細野晴臣さんや矢野顕子さん、大滝詠一さんなど、はっぴいえんどのそれぞれのメンバーがソロプロジェクトで試みてますね。そのはっぴいえんどをバックに従えて、フォークの神様と呼ばれた岡林さんがこういう形で西洋の音楽ではない日本のリズムを求めて、日本やアジアへと向かった。これは同じ流れの中にあると言ってもいいと思うんです。そして、一番孤高で、誰の助けも借りずに無謀に突っ込んでいったのが岡林さんだと言っていいでしょう。東芝EMIからは『ベア・ナックル・ミュージック』、『信康』、『メイド・イン・ジャパン』の3枚のオリジナルアルバム、そしてライブアルバム『岡蒸気』の合計4枚が出ています。『ベア・ナックル・ミュージック』は素手、弾き語りの音楽、ツアー「ベア・ナックル・レビュー」は弾き語りのツアーでしたが、まだエンヤトットをやりながら弾き語りもやっている時代だったんです。その途中にサムルノリと出会って、そっちに近づいた時期もあった。東芝EMI時代のアルバムは、エンヤトットの試行錯誤の時代のアルバムです。結局彼は、20年近くエンヤトットと格闘して、1998年に『風詩』というアルバムで一旦区切りをつけるわけです。続いてはそんな話を訊いております。お聴きいただく曲は『ベア・ナックル・ミュージック』より「’84 冬」。これはお父さんのことを歌っているんですね。曲の後にその話を訊いてます。

(インタビュー) 

岡林:東芝の方からデイレクターの鈴木孝夫が来て、まさか俺がエンヤトットなんかやってると思ってなかったから、レコードも出さずに何してんの、うちでレコード出さない? って感じで言ってて。その時に、松本隆くんをもう一度プロデューサーにして作品を作らないかって話だったんだけど、俺はどうしてもエンヤトットをやりたかった。でもこれはなんぼ話しても通じないから。じゃあ今度はプロデューサーなしで、鈴木さんが俺がプロデュースやるよって言ってくれて。 

田家:エンヤトットという言葉は最初からあったんですか?

岡林:なんか自然発生的にね。サムルノリに対向するええ言葉ないかなっていうのと、日本のリズムっていう言い方もおかしいし。エンヤトットミュージックって言ったほうがなんとなく面白いかなって。エンヤトットはかなり粘って頑張って、結局30年近くやったのかな? 結論から言うと、あれは生で聴かないと分からない。3年ほど前に50周年コンサートを東京でやった時に、NHKのラジオの女性アナウンサーが来てくれた時に、「CDでエンヤトットを聴いてたけどさっぱり分からなかった」って。その日は2曲だけアンコールでエンヤトットバンドを呼んでやったんだけど、それには「ノリました! でもあれは生で聴かないとダメな音楽ですね」と言っていて。それがエンヤトットの強みでもあり、弱点でもあって。広げるためには、生で聴かせないといけない。エンヤトットもはっぴいえんどの時と一緒で、エンヤトットのコンサートをわざわざ主催してくれる人もいなかった。生で聞いてくれた人は、ある程度面白さを分かってくれたけど、広がりということでは難しかったということで。それと、俺も堪能したというか。盆踊りの陶酔感を自分たちの手で作り出したかったけど、それはできたと思った。何しろ年に二回しかコンサートなくなったのよ。現実問題、コンサートがない時は非常に辛いよな。それでエンヤトットにもここらでいいだろうと。それが5,6年前かな。

Rolling Stone Japan 編集部

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