岡林信康がぶっ壊そうとした「フォークの神様」のレッテル

田家:田舎暮らしの中で演歌が良いと思うようになっていった理由はあるんですか?

岡林:やっぱり花鳥風月というか、当時の演歌には自然の描写がよくあったのよ。山村での畑稲刈りの中で、春に花が咲いて、夏にそれが生い茂って、秋に枯れ葉になって、冬に死の静寂があるのが演歌なのな。自分のロックにはこういうのがなかったなと思って、そんなことから演歌に入っていったのかな。

田家:ボブ・ディランの歌にはこういう四季がないみたいな。

岡林:そうそう。たまたまあの頃に母親が胃癌で亡くなって。当時俺は29歳だから、母親を失くすにはちょっと若いんだよね。そういう人の死への儚さみたいなものもあったんちゃうんかな。それが四季の中で母親の死を受け止めて、より演歌的な心情になっていったんだね。

田家:アルバムの中には「橋〜“実録”仁義なき寄合い」という曲もありましたが、あれはあのままの話ですか?

岡林:村の寄り合いをそのまま歌にしたのよ。

田家:そういう寄り合いにも、村の住民として参加されていたという。

岡林:それは村の決まりだからね。毎月一回常会があるから、我が家の代表として僕も出席してました。あの橋は架け替えないと危ないから、とにかく綾部市の補助を引き出したいということで、歌の中にも出てくるツナちゃんがあのレコードを市の建設課に持っていって、この曲をかけながら交渉したの。こんな悲惨な歌ができるほどあの橋はひどいんだ。ほっといていいのか! って。地元に貢献したんだよ俺は(笑)。

田家:すごい話ですね(笑)。で、それまでの岡林さんのファンからはなんだこれは! と。

岡林:コロンビアにファンからの手紙が来て、岡林は右翼に転向したのかと訊かれたりね。演歌には右というイメージがあったんやろね。

Rolling Stone Japan 編集部

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