パット・メセニーの新境地は「弾かない」 伝説的ギタリストが挑む音楽家としての究極

作曲と切り離せない、プレイヤーとしての強固な記名性

さて、パット・メセニーが自らの演奏を(ほぼ)封印して、作曲家としてリリースしたアルバムを語るために、作曲家としてのメセニーのキャリアについて少し振り返っておきたい。

メセニーは唯一無二のギタリストであり、以降のギタリストは多かれ少なかれ、彼の影響を受けていないものはほぼいないと言ってもいいくらいの存在だ。ジム・ホールやチャーリー・ヘイデンとのデュオ作や、ソロギターでの名曲集、更にはジョン・ゾーンがマサダというプロジェクトのために書いた楽曲だけを演奏した『Tap: John Zorn’s Book of Angels Vol.20』、アコースティックギターのソロで全曲ポップスのカバーを演奏した『What’s It All About』などを聴けば、メセニーが奏でればどんな名曲もパット・メセニーの音楽になってしまうほどの強烈なギタリストであることがわかるだろう。

そんなすさまじい演奏ができる上で、メセニーは「Bright Size Life」「September Fifteenth」「James」「Minuano (Six Eight)」「Last Train Home」などの名曲を数多く生み出していて、「Last Train Home」のようにほぼポピュラリティー・ソングのような扱いを受けている楽曲さえも書いている。それ以外にもニック・ホルダーによるハウスの名曲「Summer Daze」にサンプリングされた「Slip Away」や、「As Falls Wichita, So Falls Wichita Falls」のようにDJから愛された曲もあり、ジャンルを超えて幅広く支持を受けている。つまり、ギタリストとしてだけでなく、作曲家としても超一流なのだ。



ただ、それらの曲がカバーされるケースは驚くほど少ない。ジャズ・ギタリストとして絶大な影響を与えてはいるが、セッションで演奏される定番になるスタンダードのような曲はほぼないと言っていいだろう。

口ずさめるような印象的なメロディの強さや、リズムやハーモニー、バンドのメンバーの個性に合わせて書かれたようなアレンジ、そして、なによりもメセニー自身のギターを中心に構成された“メセニーありき”と言ってもいい構造が安易なカバーを阻んでいると言ってもいいかもしれない。パット・メセニーの楽曲は常にパット・メセニーのギターとともに鳴ってきたのだ。

とはいえ、メセニーの曲は演奏と作曲が密に結びついているからこそ、様々なチャレンジが可能になっていたと感じる部分もある。2005年に発表した『The Way Up』での1トラック72分といった暴挙さえも可能にしているのは、自身のギターを中心に置き、個々のメンバーの演奏とそのキャラクターに合わせて的確に曲を書くことができるメセニーの作曲家としての能力があればこそだ。



そんなメセニーは自分のギターを中心に置き、その周りに自身が思うようなサウンドを的確に配置するためにオーケストリオンというオリジナルの自動演奏装置と共演した異色作『Orchestrion』を2010年に発表している。自動演奏する楽器に囲まれながら演奏するメセニーのサウンドは、紛れもなく僕らが良く知っているあの“パット・メセニーの音楽”そのものだった。

オーケストリオンはスタジオ録音の『Orchestrion』とライブ録音の『The Orchestrion Project』の2枚発表しているが、どちらを聴いても、メセニーの楽曲と彼のギターさえあれば、人間ではなく機械が音楽を奏でようともメセニーの音楽になることを示していた。逆に言えば、周りは替えが効いても、メセニー自身のギターによる即興演奏だけは必須であるとのメッセージにも思えた。『Orchestrion』はパット・メセニーがそんな(いい意味での)プレイヤーとしての強烈なエゴみたいなものを露わにしたアルバムだったと思う。



僕はメセニーを『Orchestrion』のイメージで認識していたこともあり、今回の『Road To the Sun』で本人が演奏していないと知った時、かなり違和感を持った。ただ、実際に音源を聴いてみると、演奏をしていないのにメセニーが演奏しているかのように感じられてしまい、別の違和感を覚えていくのでもあった。

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