岡林信康とともに紐解く、コロナ禍で生まれた23年ぶりのアルバム

田家:曲が浮かんだりした時は、筆記用具を用意したり、ギターをそばに置いてという感じだったんですか?

岡林:そうやね。ギターも弾くし、言葉も書くし。そこにメロディをつけて、また言葉も直して、またメロディも直して。完成した歌詞を書いて曲をつけるということじゃないのよ。最終的にどういう歌になるかは自分でも分からないし、部屋に籠もって七転八倒しているうちにできた。よく色々な人が、曲や歌詞が降りてくるって言うけど、俺は降りてくるいう感覚になったことはない。とにかく自分の中にあったものが出てきた。そういう感覚やね。

田家:自分でも思ってもなかったことが出てきたという?

岡林:アルバムを作れるとは思ってなかったし、最初の3曲ほどできた時にちょっと遊び心で、今一緒にコンサートの旅をしている加藤実君に自分がギター1本で吹き込んだ音源を送っといたのよ。ほんで、これにちょっと音をつけて遊ばないかって言って。彼はピアノもオルガンもエレキギターもアコーディオンも何でも弾けるから、それに音をつけて送り返してくれたのね。それを聴いてるうちに、また面白くなってまた次の歌ができるというね。

田家:最初にできた3曲というのは?

岡林:「復活の朝」と「お坊ちゃまブルース」と「友よ、この旅を」が最初にできて。

田家:「お坊ちゃまブルース」は、岡林さんらしいシニカルでユーモラスな部分もありますね。

岡林:これは誰のことを言ってるんですかってよく訊かれるんだけどね(笑)。これは誰だって言ってしまうと、歌の楽しみ方が限定されてしまうやろ。皆が自由に受け止めて、近所のおっさんを連想したっていいんだし。自由に楽しんでもらいたいから、僕は敢えて何も言わない方がいいなと思って。

田家:こういう世の中に対しての批評性はずっと変わらずある、そんなアルバムですよね。

岡林:そうやね。それを敢えて歌に出したっていうのは久しぶりやね。自分でもこういうこと言って、またメッセージフォークとかプロテストフォークって言われるの嫌だから、避けてた節はあるんだけど。今回は素直にポロっとね。

(以下、スタジオ)

田家:岡林さんは京都から少し離れたところに住んでいらっしゃるわけで、ご自宅に伺うのもなんだしということで、京都駅に直結しているグランビアホテルの一室をお借りしてお話をお伺いしました。こんな風に始まったアルバムなんですよ。自分でもびっくりした、もう俺には曲は書けないんではないかと思っていて、でも北京の空が綺麗になったっていうニュースを見て「復活の朝」が浮かんだら、次々と曲ができた。そんな始まりです。環境が変わったり、生活が変わったりすることが、眠っていた何かを呼び起こす。そんな時期だったんですね。「復活の朝」と「お坊ちゃまブルース」と「友よ、この旅を」、アルバムの中の柱とも呼べる3曲が最初にできた。「お坊ちゃまブルース」のように、世の中を茶化しながらプロテストしているというのは、岡林さんの初期の曲に多かったんですが、1980年代頃から書かなくなってましたね。プロテストフォークだとか、メッセージフォーク、フォークの神様だ、と言われることは、もう勘弁してほしいということで書かなくなった。それらの曲も、後ほどお聴きいただきます。

Rolling Stone Japan 編集部

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