米国史上唯一の未解決ハイジャック事件、運命を狂わされた客室乗務員の半生【長文ルポ】

客室乗務員から尼僧へ

1971年当時における航空機のハイジャックは、現在のそれとは大きく意味合いが異なった。1968年から1972年の間には130機以上のアメリカ航空機がハイジャックされ、その大半はハバナに帰還しようとするキューバ国民か、フィデル・カストロが率いる社会主義体制に奉仕すべく、渡航禁止令を無視して同国に渡ろうとするアメリカの革命家たちによるものだった。血を流すこと(および空港での金属探知機の導入)を避けるため、各航空会社はハイジャック犯の要求に全面的に従う方針を定めていた。目的地にかかわらず、コクピットにはカリブ海の座標が常備されていた。行き先がキューバに変更になることはさほど珍しいことではなく、一種のジョークとさえなっていた。『The Mystery of D.B. Cooper』で、Rataczakはこう語っている。「乗客が現地でラムのボトルとタバコを購入し、同じ飛行機でアメリカに戻るというパターンは、まるで楽しい経験のように思われていました」。マックローはD.B.クーパー事件以降ハイジャックが過激化し、9.11に代表される悲劇が起きるようになったと考えている。しかし当時は、事件後も業界に大きな変化は見られなかった。事件から1ヶ月経たずして、マックローは職場に復帰した。

彼女は再び空を飛ぶことを恐れず、事件によってトラウマを抱えることもなかった。「私は先に進もうとした。若く柔軟だったからこそできたことかもしれないけれど、私たちにはそういう心構えも求められていたので。それも自分たちの仕事の一部、そう考える必要がありました」

マックローはその事件が、後年に至るまで自分の人生に影響し続けるとは思いもしなかった。彼女は以降10年間に渡って客室乗務員の仕事を続け、その後は尼僧として修道院に入った。2000年代に開設されて以来、D.B.クーパー事件のマニア達が頻繁に意見を交換していた掲示板やブログでは「彼女が修道女となったのは、犯人から受けた何かしらの行為がきっかけだったのではないか?」「証人保護プログラムの一環なのではないか?」等、様々な憶測が飛び交った。どれも単なるゴシップでしかないと、マックローは話す。「私がカトリックの信者になったのは1978年で、自分の精神性と信仰を深めたかったからです」。彼女はそう話す。「FBIも事件も、まったく無関係です」

Translated by Masaaki Yoshida

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