ローリン・ヒルが語る、アーティストの「名声」と「自己犠牲」

今でも疑わしき慣習には従わない

ー今振り返ってみて、『ミスエデュケーション』はあなたが思い描いていたレコードになりましたか?

私はアーティストとしての自分に対して常に厳しくあり続けてきたから、思い通りにならなかった部分はもちろんあるけれど、あのアルバムに込められた愛と情熱、それに意思は揺るぎないと思ってる。私の目的は、自分たちが手にしているものが誰かの犠牲の上に存在していることを、音楽や社会や政治における先人たちが悟るきっかけになったものを提示し、私たちがその真実の元に、誇りと自信を持って歩んでいくべきだと伝えることだった。あの頃の私は、それが自分の義務であり責任だと感じてた。黒人のコミュニティにおける経済や教育の質の格差を目の当たりにして、私はまだすごく若かったけれど、音楽というプラットフォームを通じてそのギャップを埋め、「私たち」が求めていることにさえ気づいていなかった概念と情報に触れる機会を作ろうとした。「私たち」というのはもちろん概念的な意味合いよ。そういったことは私にとって大きな意味を持っていたし、それは幼い頃から変わっていなかった。

また、あのアルバムは当時受け入れられやすかった型やクリシェに収まらなかったと思う。私は既成概念に挑戦し、新たなスタンダードを提示した。『ミスエデュケーション』はそういうレコードだったし、私は今でも疑わしき慣習には従わない。大きな資本を後ろ盾として確立されていた機能不全の体制を相手に、私はより迅速かつ大きな志を持って行動しなくてはいけなかった。かつて抑圧されていたものに宿る美に光を当て、異なる文化のパラダイムが共存しうることを証明しようとした私は、持たざる人々のために解決策や選択肢を提供するのではなく、社会秩序を乱す存在と見なされた。体制に対抗するために、目にもとまらぬ速さで動き続けなくてはならなかった私と家族は、常に大きな緊張感に晒されていた上に、世間から理解してもらえなかった。私は自分の人生を犠牲にしてでも、それまで手の届かなかった何かを人々に知ってもらおうとした。でも私が犠牲にしたものを人々が理解できずにいると知った時、私はそこから退き、自分と家族の身を守らなくてはいけなかった。私は今でもそれを続けているの。



ーアルバムは過去にほとんど例を見ない形で文化に浸透し、あなたを国民的スターの座に押し上げました。世間からの注目に、当時のあなたはどのように対処していましたか?

スターダムを満喫する一方で、それを苦痛に感じていたのもまた事実ね。多くの人は自分の作品と犠牲が世間に認知され、評価されることに喜びを覚えると思う。私はそれを手にしたけれど、現実から乖離することなく、人々に大きな影響を与える作品を生み続けようとするすべてのアーティストにとって、地に足のついた生活を送るというのは不可欠なことなの。人々が「スター」を崇める「空間」においては、それは簡単なことじゃない。

自分に向けられる賞賛に対する抑制と制御、それが私を支えてた。理想的なバランスと明瞭さの確立、そして禁欲の実践というのは、誰もが容易にできることじゃない。例えば、何にでもイエスと答えるのはいいことではなく、スターダムを経験するとそれを余儀なくされる思われがちだけど、本音がイエスであるにも関わらず、イエスマンだと思われたくないがためにノーと答えるのは馬鹿げてる。答えがノーなのに他人を失望させまいとイエスと答えることは、自分を映し出す鏡を歪ませてしまう。一方で、明確なヴィジョンを持っている人は世間のずっと先を行っているから、後に自分が間違っていたことを認めることになるのを恐れる人々から断固たるノーを突きつけられることもある。

アーティストは公共の財産だという考え方も、私は以前から理解できなかった。私は作品を共有することに同意したけれど、自分自身まで共有するつもりなんてなかった。自分という存在、あるいはその一部を大衆が所有できるという考えはものすごく危険だと思う。私はそういう圧力に苛立ちを覚えるし、ありのままの自分を表現するのではなく、人々を安心させるために低俗で予定調和の存在を演じるべきだという考え方を受け入れたりしない。また私は、自分を決して困難な状況に置こうとしない人々からの非現実的な要求に対しても徹底的に抗う。私は如才なく、とても忍耐強い人間だと思ってる。それでも、絶えず自分を卑下して萎縮し、自分を安売りするようなことはできない。

Translated by Masaaki Yoshida

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