AUTO-MOD山岡重行と手島将彦が語る、閉塞した社会におけるサブカルチャーの重要性

ー昨今、芸能人やミュージシャンが例えば政治的な発言をするとSNSで叩かれる、炎上するケースがあります。

山岡:社会の行儀がよくなって、表現の許容範囲がどんどん狭められていった感じがしますね。70年代の日本のドラマ、例えば「時間ですよ」なんていう銭湯を舞台にしたホームドラマでは性的な見せ方じゃなくても、乳房が映っていましたよね。80年代、90年代とだんだんその描写が少なくなっていって、2000年代ではほとんど裸が映らなくなった。あとは言葉の表現も変わってきますね。今では絶対ダメな用語や表現も、当時の映画やドラマに多かった。そういう言葉狩りがマスコミで行われて、表現の許容範囲が狭くなっていく。言葉は思考の材料ですから、そうなると、考えることの許容範囲も狭くなる。結果、それは駄目だと自主規制しちゃう人も増えてきますよね。また、学生運動のように60年代から70年代にかけて若者が政治に対して反抗していた時期もありますが、そういうことをさせないように国が若者を教育してきたのもあると思います。

手島:この前、いまの中・高学生は制服を変形させて着なくなった、という記事を読んだんです。それはそういう目論見はないにせよAO入学というシステムがあるからで、結果的に、若者たちを逸脱させない方向に落とし込んでしまっている面もある。そういう中で育ってきた分、若い人は、世の中に出ていくにあたってこれをやると不利益だっていうのが色々な場面で刷り込まれたり、もしくは恐れるようになっているのかなと。

山岡:あとは単に着崩すのが格好悪くなったんですよね。学生服が消えていった過程で、まず当時荒れていた学校が詰襟からブレザーに変えたんですよ。今、詰襟が残っているのはそれなりの進学校が多いんです。ブレザーになっても、90年代にHIPHOPが流行りだした頃には、ヤンキーは腰パンにしたり着崩していた。ギャルはルーズソックスとかミニスカートを着ていたわけですけど、当時はまだノーマルじゃない方がカッコよかったんですね。今は却って、そういうことをやると、差をつけるのは格好いいことじゃなくて悪目立ちになってしまう。イタい、格好悪いと逸脱を否定する圧力が若い人たちの中にあるように思うんですね。

ーそういう悪目立ちを嫌う雰囲気が、著名人の発言にも向けられるということですか?

山岡:その人のメインフィールドから外れたことを言うと、「何を生意気なこと言ってるんだ、何を勘違いしてるんだ」と、言われる。自粛警察にも共通するものがあるかもしれないんですけど、ちょっと違う方向に目立った人を中に押し込めようという力が、大人だけじゃなくて若者の中にもあるように思いますね。

手島:それは感じますね。なぜでしょう? もちろん、素人が専門外のことでデマを拡散したのなら、それは叩かれても仕方ないかもしれないですけど。例えばミュージシャンが音楽以外の話をしたら、突然その何様のつもりだって言われてしまうのはなぜなのか。

山岡:強く出れなくなったというのもあると思いますけどね。例えば事務所の方針とか。

手島:実際、事務所からそういうことは言わないようにしてくれ、と言われてる話は耳にします。たしかに、その方が得なことは多いと思うんですよね。でも、ハッキリとは言わないけど、本人は確実にそう思っているんですよね。

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