27歳で他界した「27クラブ」のスター20人|2020年ベスト

ジム・モリスン、エイミー・ワインハウス、カート・コバーンら27クラブの面々(Photo by Aradlo Di Crollalanza/REX Shutterstock, Matt Dunham//AP/REX Shutterstock, Stephen Sweet/REX Shutterstock)



・ピート・ハム


(Photo by Fin Costello/Redferns)

カート・コバーン以外に、自殺と断定された中で最も有名なのがバッドフィンガーのピーター・ハム。1960年代、ビートルズが立ち上げたアップルレコードと契約を結んだバンドのメンバーだ。他の自殺の例に漏れず、ハムも死が唯一問題を解決してくれると信じるところまで来ていた。1975年4月24日、28歳の誕生日の3日前の夜、彼はイングランドの自宅近くのパブでバンドメンバーのトム・エヴァンズと会い、こう言った。「心配はいらないよ、解決法はわかっているから」 自宅に戻ったハムは酒の勢いを借りて、マネージャーへの恨みつらみを遺書にしたため、ガレージで首を吊った。その7年後、エヴァンズも首を吊って自殺した。


・クリス・ベル


1972年頃(左から)クリス・ベル、ジョディ・スティーヴンス、アンディ・ハンメル、アレックス・チルトン(Photo by Michael Ochs Archives/Getty)

クリス・ベルのキャリアは彼の死同様、痛ましいものだった。才能溢れたミュージシャンはパワーポップのヒーロー、ビッグ・スターの中心的存在で、ギタリストとしてボーカルのアレックス・チルトンと共に『#1 Record』の大半の楽曲を作曲した。だがいざリリースすると――楽曲はもちろん、10代の時に人気グループBox Topsのフロントを張ったチルトンも批評家から大絶賛されたにも関わらず――アルバムは不発だった。ファーストアルバムのリリースから6年後、ベルはビッグ・スターを脱退し、慢性的な鬱と薬物中毒にはまっていった。その後何度か音楽生活に復帰しようと試みたものの上手くいかず、最終的には家族が経営するレストランで働かざるを得なかった。1978年12月、バンドのリハーサルから帰宅する途中、愛車のトライアンフTR7が電柱に激突し、ベルは即死。死後ソロ作品の多くがリリースされ、ビッグ・スターのサウンドに彼がいかに重要な役割を果たしていかが改めて世に知れることとなった。


・D・ブーン


左端がD・ブーン

ミニットメンのボーカル兼ギタリストD・ブーンは、バンドと共にパンクとハードコアの様式を拡大し、電光石火の早弾きで、ファンクやジャズ、インプロビゼーションを織り交ぜた立役者だ。南カリフォルニア出身の4人組はレーベル仲間のブラック・フラッグと共に、80年代音楽シーンのDIY精神を確立し、80年代初期に4枚のフルアルバム――金字塔を打ち立てた2枚組アルバム『Double Nickels on the Dime(原題)』も含まれる――の他、シングルやEP盤も数枚リリースした。やがて有名人からも愛されるようになり、マイケル・スタイプがR.E.M.の3週間に渡る北米ツアーのオープニングアクトに彼らを起用したのは有名な話だ。1985年12月、ツアーを終えて帰郷してから数日後、ブーンは高熱を出した。それでも彼は、アリゾナ州にある恋人の実家で休日を過ごすことにし、恋人が運転する間一休みしようと、ワゴン車の後部座席で横になることにした。道中、恋人は運転中に眠気に襲われ、車は横転。ブーンは後部ドアから投げ出され、首の骨を折って死亡した。「最悪の事態だった」と、バンドメンバーのマイク・ワットは著書『Our Band Could Be Your Life(原題)』の中で語っている。「もう彼はいない。ミニットメンも終わった……彼がいなくなって寂しいよ」


・ジャン=ミシェル・バスキア


アンディ・ウォーホールとジャン=ミシェル・バスキア(Photo by AP)

20歳の誕生日を迎えた年、ジャン=ミシェル・バスキアはポップカルチャー転換期のアート界の寵児となった。高校を中退した後独学でアートを学んだブルックリン生まれの新表現主義アーティストは、ソーホー界隈に「SAMO」という署名付きのグラフィティアートを描いて70年代後半を過ごした。そして1980年、彼はようやく色鮮やかで荒っぽい人物像の横にしばしば一言添えた作品をグループ展示に出すことにした。その後はアンディ・ウォーホールとのコラボレーション作品を製作し、マドンナと浮名を流し、ブロンディの「Rapture」のミュージックビデオに出演した。また、作品を破壊したり、ドライフルーツやナッツを画商の頭にぶちまけたりと、気分屋のアーティストという伝説を作り上げた。その一方で深刻な薬物問題も抱えていた。1988年に「複数の薬物乱用による急性中毒」――具体的にはオピオイドとコカイン――で死亡するまでの数カ月間、彼は一日にヘロインを100回打っていると豪語していた。以来、彼は過去30年間で最も著名なアーティストの1人に数えられ、伝記映画が作られた他、ジェイ・Zの楽曲にも幾度となく取り上げられている。

Translated by Akiko Kato

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