聖飢魔IIの創始者「ダミアン浜田陛下」が語る、王道を貫くメタル愛

「王道」を自覚することで精神的グルーヴが一致

―後世に残る曲、洋楽に遜色のないクオリティ。それは音楽家の多くが意識するところでしょうが、それでもその時どきのトレンドに則ってしまったり、インパクトを求めるあまり奇を衒ったものになってしまうケースも多いはずです。ところがこの2作の楽曲たちというのは、むしろハード・ロック/ヘヴィ・メタルの王道的な楽曲といえそうですし、そうした楽曲で構成されたアルバムがこの時代にこうして堂々と登場することにも意義深さを感じます。

DH:おお! ということは、発売のタイミングも良かったということになるのかな?(笑)今、王道的という言葉が出たが、それは、さきほどの「スタジオ・ミュージシャンばかり集めていたらこうはならなかったかもしれない」という話にも通ずるところがある。私は、さくら“シエル”伊舎堂にしても、金属恵比寿の面々にしても、「この人たちはどんなものが好きなのだろう?」というところまで探りながら起用している。その全員に共通しているのが、いわゆるクラシック・ロックを非常に好んでいるという点だ。私自身も70年代、80年代のそうしたものが大好きで、自分の音楽的趣味が90年代前半あたりまでで止まっているようなところがあるのを自覚しておるが、そこが共通していることにより全員の精神的グルーヴが一致している。私にはそうした感触があるし、それがその王道感に繋がっているのではないかな。同時に、その王道というのが自分自身、ダミアン浜田にとっての音楽の枠だと認識している。そこでみんな周波数も歩調も合わせながら、いろいろなことをやってみたということになるだろう。

―しかもその周波数や歩調が無理なく合った、ということですね?

DH:うむ、その通りだ。無理なく、というのは大事なことだ。

―音楽的には王道。ただ、作曲者が演奏に関わらないというバンドの成り立ちや、見た目の部分からは、逆に邪道の匂いも感じられます。私にはそれが、ある種の問いかけのようにも思えるんです。「この音楽を邪道だと感じるならば、それはイメージに左右されてしまっている証拠なのではないか?」というような。

DH:ふふふ。面白いことを言うな。ただ、そうしたギャップを狙ったわけではないし、むしろ聖飢魔Ⅱからの流れを踏襲するとこういう形になった、ということでしかないのだが。

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