1970年代の浜田省吾との出会い 水谷公生とともに振り返る



田家:今流れているのは、1978年のアルバム『Illumination』の中から「片想い」。水谷さんに当時の忘れられない曲を何曲か挙げていただいたのですが、この曲も入っておりました。

水谷:僕がアメリカにレコーディングで行ってる間に、僕のお袋が亡くなったんですよ。その時にこの曲のアレンジが重なりまして、お袋のお骨の前でアレンジしたんです。いわゆるメッセージ・カントリーフォーク色の強い浜田さんでしたが、僕は実は彼の作るマイナーな曲(短調の曲)が大好きで。この曲も、本当に歌詞が胸を打つ曲で。どうしても思い出に残る曲でした。

田家:アメリカに行かれていたのはどなたの仕事ですか。

水谷:丸山圭子さんですね。アレンジの佐藤準くんと僕でアメリカに行って、向こうのドラマーやベーシストと一緒にやりましたね。

田家:丸山圭子さんは後にこの曲をカバーしましたね。

水谷:そうです。昔から彼女は浜田さんのことが大好きで。

田家:このアルバム『Illumination』のレコーディングスタジオで、水谷さんと浜田さんのやり取りがあって、多少険悪な雰囲気になったと伺っております。

水谷:浜田さんとどうこうじゃなくて、当時全米ナンバー1と言われていたバンド・ベルリンのメンバーでドラマーのロバート・ブリルがいて、彼はとてもシャープなドラムを叩く人なんですよ。他のメンバーは皆日本の歌を聴いていてビートのちょっと後ろにくる傾向があったんですけど、ロバートはガンガンくるので、プロデューサーの鈴木幹治さんが、ドラムが走ってるって言って。

田家:鈴木さんもドラマーですからね。

水谷:でもそれは走ってるというよりは、ビートにジャストでいくのか、ちょっと遅れてくるかの違いであって。「それは走ってるんじゃないんじゃないの?」っていう話をプロデューサーやメンバーとしたんです。その時、僕がもうちょっと大人で周りのメンバーも子供じゃなかったら、アフタービートでやろうよって話になるんですけど、当時は皆ギラギラしてますから(笑)。でもそれがあったので、同じメンバーでやっていい結果になりましたからね。何でもかんでも素通りするよりも、言いたいことをちゃんと言って、ちゃんと真摯に受け止める方がいいですよね。

田家:その時は、水谷さんの中に浜田省吾さんという人に対してはどういう認識があったんですか?

水谷:僕はアレンジャーなので、先ずその人の声と楽曲を聴くんですよ。当時は彼のツアーはいっぱいあったし、曲も作って忙しかったので、入り口になるのは鈴木幹治さんだったんですよ。彼と話すことが多くて、浜田さんも好きそうなアレンジを彼と話し合っていたので。だから一緒に飲みに行ったこともないし、ご飯も食べたことなかった時代ですね。

田家:水谷さんは当時売れっ子で、1日にスタジオを何件も掛け持ちだった。

水谷:そうですね。幸いなことに色んなヒット曲をスタジオでやらせてもらっていたので、いい仕事をしていましたね。その中でも彼の声は違和感がなかったので、絶対に売るぞ! とは思ってましたけどね。

田家:水谷さんが今日選ばれた曲の中に、この曲がありました。「散歩道」。

Rolling Stone Japan 編集部

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