追悼ショーン・コネリー、圧倒的なカリスマ性を持った最後の映画スター

コネリーは、ボディビルと芝居をはじめ(彼にとって両者は無関係ではなかった)、ミスター・ユニバース・コンテスト(3位に入賞)に参加するため、ロンドンに引っ越した。俳優としてブレイクするきっかけは、10歳年上の女優ラナ・ターナーの目に留まり、彼女の希望でドタバタのメロドラマ『Another Time, Another Place(原題)』(1958)の恋人役に抜擢されたことだった(コネリーは、ターナーのギャングのボーイフレンドの襲撃を恐れ、ロサンゼルスを離れた)。さらにコネリーは、サイコな小人を描いた、恐怖の子ども向けディズニー映画『ダービーおじさんと不思議な小人たち』(1959)にも出演した。

しかしながら、コネリーは『007/ドクター・ノオ』で映画スターとしての地位をようやく手に入れた。同作で浜辺の女神のような初代ボンドガールのハニー・ライダーを演じたのは、ウルスラ・アンドレスだ。カジノのシーンで「ボンド、ジェームズ・ボンド」と名乗るボンドの無愛想さは、『007/ゴールドフィンガー』(1964)から『007/サンダーボール作戦』(1965)、さらには『007は二度死ぬ』(1967)(劇中でコネリーは、“ザ・ロック”ことドウェイン・ジョンソンのプロレスラーの実の祖父をボコボコにする)から『007/ダイヤモンドは永遠に』(1971)(同作のボンドガールは、実生活ではヘンリー・キッシンジャー元米国務長官の恋人)にいたるまで、007シリーズとともにますますひどくなるばかりだ。



現実世界とファンタジーがまったく相入れないなか、ボンドをここまで本物らしく演じることができたのは、コネリーだけだ。ソ連との冷戦に英国が加勢していたなんて世間が知らないなか、英国の諜報員が冷戦を戦うという姿には、どこか滑稽なものがあった(英国人が米東海岸のコネチカット州を侵略!?)。国家の偉大さを証明する主な要素がポップスターの輩出とミニスカートの発明になっていた当時、ボンドはもはや存在しない大英帝国の栄誉を守る最後の砦だったのだ。それにボンドは、自分が油断した瞬間、あるいは「ステアではなくシェイクのマティーニ」を楽しもうとした瞬間にソ連の軍隊がクロイドン(訳注:ロンドン南部にある自治区)、シャフツベリー(訳注:ロンドンから車で2時間ほどの田舎町)、ウェイクフィールド(訳注:イングランド北部の都市)に流れ込むと信じていたようだ。007というボンドのコードネームには、そんなジョークが込められていた——同じような妄想に取り憑かれた、少なくとも6人が世界中を駆けずり回っているというジョークが。

ショーン・コネリーは、007役を「フランケンシュタイン博士が生み出した怪物」と表現し、そのイメージから逃れるために必死に戦った。「私は、25歳から俳優をしている」とコネリーは本誌に話した。「だがメディアは、運良くタキシード姿の役に抜擢され、ウォッカマティーニをミックスしはじめた男というイメージを私に貼り付けた。当然ながら、これはまったくのデタラメだ。私はテレビや演劇はもちろん、ありとあらゆることをしてきた。だが、通りから偶然この世界に足を踏み入れた人物というイメージを貼り付けるほうがドラマチックだったのだ」。本物の俳優としての力を証明するため、——ティッピ・ヘドレンと主演したヒッチコック監督の1964年のスリラー『マーニー』をチェック——コネリーはボンド役を離れ、さらなるチャレンジに挑んだ。ボンドとして残りの人生を歩むこともできただろうに、彼は本当の自分を見出したのだ。

1970年代半ば、彼は文字通り「コネリー、ショーン・コネリー」となった。きっかけは、中年のならず者の冒険を描いた3部作、『王になろうとした男』(1975)、『風とライオン』(1975)、『ロビンとマリアン』(1976)だった。コネリーは、007で使用していたカツラをやめ、カリスマ性だけを強めていった。米映画評論家のポーリーン・ケイルは「髪がないことは、もはや償うべき欠点ではない。コネリーが永遠に変えてしまったのだから」と綴った。

Translated by Shoko Natori

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