ブルース・スプリングスティーンが語る音楽の力と米社会、亡き友との絆が遺した影響

「昔みたいにやろうって提案したんだ。弾いたままを録るっていう、クラシックなやり方をね」

Theissが他界する少し前、スプリングスティーンはブロードウェイ公演会場の関係者用入口で、あるファン(イタリア人だったと彼は記憶している)からアコースティックギターをプレゼントされた。「『ワオ、どうもありがとう』って感じで、ありがたく受け取ったよ」。彼はそう話す。「ざっと見たところ悪くない品のようだったし、車で家まで持ち帰ることにした」。聞いたことがないブランド名が記されたそのギターは、何カ月もの間自宅のリビングの片隅に置かれたままだったが、昨年4月頃に彼はそれをふと手にとった。

何の前触れもなく「アルバムに収録された曲が次から次へと生まれてきた」ことに、彼自身も驚いたという。「10日もかからなかったと思う。時々部屋を移りながら、1日1曲くらいのペースで曲を書いていった。寝室で作ったものもあれば、ホームバーやリビングで書いたものもある」。一番最初に書き上げたのは、ゆっくりと展開していく憂いを帯びた「ラスト・マン・スタンディング」だった。Castilesのギグ(“「コロンブス騎士会」や「ファイヤーマン舞踏会」 / ユニオンホールで金曜日の夜 / ルート9沿いの黒い革ジャン連中の集い” )を振り返り、その戦友を失った思いを綴る(“ビートを保ちながら、いなくなった連中の数を数える”)同曲は、スプリングスティーン史上最もストレートに自らの物語を描いた曲のひとつだ。

彼はその少し前から、バンドの一員であることの意味を歌った曲を書き始めていた。その一方で、勇ましい「ゴースト」(“ボリュームを上げ、彼らの魂に導かれる / 兄弟姉妹よ、彼岸で会おう”)、アルバムのオープニングを飾るバラード「ワン・ミニット・ユア・ヒア」(完成したのは少し前であり、クレモンズが逝去した頃だと推測される)、そして最終曲の「アイル・シー・ユー・イン・マイ・ドリームズ」等では、この世を去った者たちへの思いを感傷的になることなく綴っている。



「クラレンスとダニーを失ったことは、俺の日常に今も影を落としてる」。スプリングスティーンはそう話す。「今でも実感がないんだ。『もうクラレンスには会えないって? そんな馬鹿な』みたいな感じでさ。この世を去った人々に思いを馳せることは、今の俺の日常の一部になってる。父のこと、クラレンスやダニーのこと、いろんな出来事や時間を共有した人々のことを思うんだ。彼らの魂とエネルギーは、今もこの世界に息づいてる。それが残された者たちの心を温めてくれるんだ」

彼は実際に、よく友人たちの夢をみるそうだ。2007年に他界した、彼の友人で長くアシスタントを務めたTerry Magovernは「年に数回は夢に出てくる」という。「クラレンスも時々会いに来てくれるよ」。彼はそう話す。「子供の頃に住んでた家の夢もよく見るんだ。大抵の場合、俺は通路を歩いてる。彼らとはこれからも夢の中で会えるはずさ。俺自身が誰かの夢に出てくるようになるまでね」

クラレンスの後任は甥であるジェイク・クレモンズが務め、フェデリシとバックグラウンドが近いチャーリー・ジョルダーノがオルガニストとしてバンドに加入した。それでもなお、かつてのメンバーたちのスピリットは健在だという。「少し怖くなるくらいにね」。1974年からEストリートのキーボーディストを務め、バンドのアンサンブルを仕切っているロイ・ビタンはそう話す。「バンドで音合わせをしてると、そこにダニーとクラレンスの亡霊がいるように感じるんだ。彼らのことを恋しく思うとき、その魂は俺たちのすぐそばにいるんだよ」

自宅での曲作りを終えてからほどなくして、スプリングスティーンはビタンとランチを共にし、書き上げた曲群のことを伝えた。「俺はこう言った。『デモなんか録るなよ』ってね」。ビタンはそう話す。「昔みたいにやろうって提案したんだ。弾いたままを録るっていう、クラシックなやり方をね」。その助言は、アルバムのサウンドを決定づけることになった。またそれは、ヴァン・ザントが長年主張していたことでもあった。

Translated by Masaaki Yoshida

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