笑えるくらい中身のない『エミリー、パリへ行く』に誰もが夢中になる理由

さまざまな求婚者がいながら、エミリーは多かれ少なかれ、自立している。職場には友人を装う敵がふたりほどいて、新たに友達になった在仏米国人の生意気なミンディ(演:アシュリー・パーク)は、第2のサマンサにうってつけだ。ミンディは、白ワインのサンセールを「朝食用のワイン」と呼び、父の事業を引き継ぐために中国に帰国したら「メルケル首相みたいな服装をしないといけない」と嘆く。そんな彼女も、仕事と一目惚れを行ったり来たりするエミリーの狭い視野の端で生きている。

『エミリー、パリへ行く』には、現在の若者たちの複雑な生き方と働き方があまり描かれていない。毎度のごとくエミリーがいとも簡単にインフルエンサーになるように、同作の洞察は最初から最後まで使い捨てのSNSカルチャーの範疇を出ない。私たちは、数え切れないほどのフォロワーを抱える人々が「完璧な」自撮りを演出しようと何時間も費やすことを知っている。だがエミリーは、クロワッサンを食べています、エッフェル塔の前でアヒル口をしています、親友とおでこを合わせています、チーズバーガーを食べていますなど、できるだけありふれた写真を撮影しようとするのだ。そんなエミリーの「いいね!」と新しいフォロワー数は、国債よりも早いスピードで増えてゆく。

同作をInstagramの一種の化身(キレイだけど、見ていると感覚が麻痺してくる)とみなし、自分たちのアイデアはどれも天才的で、言うことはすべて正しく、成功が保証されていると信じるエミリーをミレニアル世代の化身と表現したい誘惑に駆られるのは事実だ。だが、エミリーはどちらかと言えば、ミレニアル世代の悲哀の解毒剤なのかもしれない——グレート・リセッション(訳注:2008年のリーマン・ショックに端を発するアメリカ国内の深刻な景気後退)、気候変動、深まる格差、そして壊滅的な被害をもたらしたパンデミックによって約束された未来が訪れなかった世代の防衛手段なのだ。

では、非ミレニアル世代が全10話を観るのはなぜか? ひょっとしたら、私たちはやり直しを望んでいるのかもしれない——前進が明るい未来につながると思っていたあの頃に。4年間の社会政治的な衰退によって相手を侮辱することが対話とみなされるようになったいま、誰も傷つけないことを目指す世界に生きるのは単純に良いことなのかもしれない。この夢のような風景は、ミレニアル世代だけのものではない。みんなでこのバカらしくも温かなハグに加わろうではないか。高級シャンパーニュを掛け合い、Boomerangで加工した動画をInstagramにアップしよう。明日の朝、現実の世界で目を覚ましたとしても、それが人生なのだ。

Translated by Shoko Natori

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