メンタルヘルス問題から考える、産業から解き放たれた音楽の役割

若林が昨年ロンドンで撮影した、アートとメンタルヘルスにまつわるチャリティ団体「The Perspective Project」のフライヤー。


ギグエコノミー化した社会を生きるために

これは必ずしもアーティストだけの問題ではありません。音楽家をそうやって業界全体、あるいはマネージメント企業などが会社として守っていくといったときに、ミュージシャンたちと関わるスタッフのメンタルも重要なイシューとなります。例えば海外では、まずマネージャーが自分自身を守れないと、アーティストを守ることもできないという観点から、『Guide To Anxiety Relief & Self Isolation』(不安の緩和と自己隔離のためのガイド)というマネージャーのためのティップスを集めたレポートなどが発表されています。ほかにも先に紹介した「Tour Support」など、こうしたシステムですべてが解決するとは思いませんが、少なくとも、大企業を筆頭に、これが業界全体に関わる重大な問題であるというメッセージにはなっているかと思います。こうした取り組みがどれほどの効果を生んでいるかは、機会があったら聞いてみたいところです。

上記のレポートには次のステップとしてミュージシャンがバランスを崩した場合、実際どう対応するのか、といった具体的な手立ても記載されています。大企業であれば、メンタルヘルスの専門家を雇うのは今後必須になってくるでしょうし、スポーツの世界では、NBAにはメンタルヘルスディレクターという役職が置かれていたりもします。

また、そこまで専門的な知識ではなくても、音楽業界に近い位置で関わっている人たちは、基本的なリテラシーとしてこうしたレポートの内容や実践的な手立てなどを多少なりとも理解しておく必要はありそうで、塞ぎ込んでいる相手に「がんばれと言わないほうがいい」とか「意見を言うのではなくただ話を聞こう」とか、そうした基本的なプロトコルを、果たしてどこまで実践できるかはおいたとしても、まずは知識としてマニュアル的にインストールしておくことも必要なのではないかと思います。社会的なリテラシーというのであれば、メンタルヘルスをめぐるリテラシーは、今後の社会や企業において、必須の事項になっていく必要があるように思います。


『Guide To Anxiety Relief & Self Isolation』より引用。心を落ち着かせるための呼吸法、ミュージシャンが穏やかに隔離生活を過ごすための心得など、さまざまなティップスが掲載されている。

というのも、メンタルヘルスの問題の難しさは、何がトリガーになってバランスを崩し、何をトリガーにしてそれが回復するのかが、ひとりひとりによって違うとところで、「孤独」や「メンタルヘルス」が大きな行政課題になっているとは言うものの、「じゃあ、ワクチンを投与すればいい」といった一元的なソリューションを適用することができないという点にあります。

カニエ・ウェストについて妻のキム・カーダシアンが「これは双極性障害なので、家族も辛いんです」といった内容の投稿をしました。彼女がああやってメッセージを出したことで、「カニエ=変人」という社会の認識が、従来の嘲笑的なものからは少し変わったようにも思いますが、とはいえカニエを「病人」とみなして隔離や投薬の対象とすることで社会の外においてしまったらいいのかという議論もありますし、メンタルヘルスは「外科的な処置」ではどうにもならない部分があるわけですから、これまでの社会制度の枠組みだけでは対応仕切れない難しさがあるはずです。つまり、「病気なんだから病院に行きなさい」という解決策だけでいいのか、それだけで本当に効果があるのかということですね。近年「ケア」という言葉がさまざまな領域で語られるようになっていますが、そこにおいては、病院やケアセンターといった施設と同じくらい、家族や友人、同僚、隣人の関与が重要な要素になっています。

「メンタルヘルスは社会全体の問題である」という言い方が欧米でされるのは、それが「行政に任せとけばいい」とか「お金を出せば解決法を買える」といった問題ではなく、それこそ、官・民に加えて、身近な市民も含めてみんなで取り組まなくならない課題だからです。



また、音楽家のメンタルヘルスが、なぜそこまで重要な課題として考えられるかといえば、音楽家のような経済環境/労働環境が、もはや音楽家やクリエイター、アーティストと呼ばれる人たちの固有の条件ではなくなり、今後多くのワーカーが、似たような立場に置かれることになる可能性があるからです。

世間ではジョブ型だ、ギグエコノミーだと新しい働き方が盛んに喧伝され、それを「働き方改革」のような制度が、やれ「副業解禁」だ「パラレルキャリア」だと煽っているわけですが、ギグエコノミーの「ギグ」という言葉は、もともと音楽業界で広く使われてきた言葉で、それは「各地を転々としながらライブをこなし、支払いはすべて取っ払い」というビジネススタイルを指していました。

これまでのサラリーマンが、雇用を離れ、どんどんフリーランス化していくことは、もちろん自由度も増えて楽しさもあるとは思いますが、その一方で、別の負荷も背負うことになります。先に紹介した『The 73% Report』によれば、音楽家が負の感情に陥る主な要因として「失敗への恐怖」「経済的な不安定さ」「成功へのプレッシャー」「他人からの評価」といったことが挙げられていますが、ギグエコノミー化した社会では、こうした不安要因をすべてのワーカーが、会社の看板がないところで、自分の名前と才覚とで背負わなくてはいけないことになるのだとすれば、それこそ73%がメンタルバランスを崩すような事態になったとしてもおかしくはないはずです。

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