メンタルヘルス問題から考える、産業から解き放たれた音楽の役割

若林が昨年ロンドンで撮影した、アートとメンタルヘルスにまつわるチャリティ団体「The Perspective Project」のフライヤー。


自己責任に頼りすぎなビジネス構造

ここ日本でも、コロナ期間中に、木村花さんと三浦春馬さんのおふたりの自殺が社会に大きな衝撃を与えました。木村花さんの事件においては、特にソーシャルメディア上の誹謗中傷が自殺の直接の引き金となったことが明かされ、ソーシャルメディアにおける罵詈雑言を規制すべき、そうした行動に出た者を処罰すべきといった議論がかなり表面化しました。もちろん、ソーシャルメディアにおけるそうした規制は重要だと思いますし、悪質な誹謗中傷にあった方々が、犯人を特定し、裁判を通して悪質な投稿の犯罪性を明らかにしていくことも極めて重要だと思いますが、アメリカなどでここ数年盛んにソーシャルメディアプラットホームの規制が叫ばれているにもかかわらず、改善が遅々として進んでいない状況などを見るにつけ、そうした制度改革にいったいどれだけの時間がかかるのか、と思わざるを得ないところもあります。まして、国民のソーシャルメディアリテラシーの向上が急務である、といった言説は、それ自体を否定するものではありませんが、リテラシー教育を全国民的にやったとして、その効果は果たしていつ出るのか途方もない話のようにも聞こえます。いったいどれだけの犠牲者が出続けたら、そうしたリテラシーが確立するのか。そう感じずにはいられません。

ただでさえ、音楽家や俳優、タレントと呼ばれるような職業にあるひとは、会社員のように安定的な収入のないなかで、自分自身の名前と才覚を商品として極めて競争的な経済環境のなかに置かれ、そしてそうであるがゆえに、つねに世間の好奇の目にさらされ、まっさきに誹謗中傷のターゲットにされるわけです。会社員として暮らしていたとしても精神的な負荷が高い世の中になっているわけですから、その負荷の大きさは察してあまりあるべきだと思います。

もちろん、それも自分で選んだ道だろ、とその世界に飛びこんだ個人の自己責任を問うことは可能ですし、そう非難することは簡単でもあるのですが、そうした言説から必ず抜け落ちるのは、そうした人たちの名前や才覚を商品としてビジネスをしている人たちがいるということを不問に付してしまっている点ではないかと思います。

木村花さんにもたらされた誹謗中傷は、わたしの知る限り『テラスハウス』という番組の演出が発端となっていたはずですが、視聴者のデータをみながら制作陣に圧力をかけ、数字獲得のために演出をエスカレートさせていったという経緯が本当であるならば、まず最初にその責任を負うべきは制作責任を負っているNetflixであったはずですが、この事件については、謝罪はおろか、コメントすら出していなかったように思います。

Netflixのような会社は、出演者の自殺によってひとつ番組を打ち切って失ったところで痛くも痒くもないのかもしれませんが、とはいえ健全なビジネスのあり方を考えれば、誰も得しない結果になっていることは否めません。プロダクションやマネージメントオフィスも損失をこうむることになっているわけです。これまでの芸能界的な慣習に則れば、そうした犠牲者の存在は、想定内のカジュアリティ(損耗人員)であるとみなすべきものなのかもしれませんが、自分たちのメシの種をそうやって個人の自己責任にすべてを覆いかぶせて見殺しにする上でしか成り立たない業界なのだとすれば、それが果たして健全なビジネスと呼べるのかは疑問ですよね。加えて、そんな業界にどれほどの持続可能性があるのかもよくよく考慮されるべきではないかと思ったりもします。

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