リンキン・パーク、2002年の秘蔵インタビュー「俺たちを強くしたのは不屈の精神」

絵に描いたような下積み時代

現在25歳のシノダは、スターバックスの屋根付きパティオの席に座っている。日系アメリカ人2世(彼の父親は幼い頃、第二次大戦中にアメリカ国内の強制収容所にいたことがあるという)のラッパーである彼は、カリフォルニア州パサデナにあるArtCenter College of Designに通いながら、バンドがギグやリハーサルを重ねていた頃のことについて話す。

「9時から16時までは学校で講義を受けてた」。半ブロック先のVentura Freewayを走る車の音をバックに、シノダはこう話す。「16時から19時、あるいは19時から22時頃まではハリウッドでバンドの練習をしてた。それが終わったら両親と一緒に住んでた自宅に戻って課題をこなすんだけど、疲れすぎてていつも寝落ちしてたよ。毎日がその繰り返しだった」

「いろいろとキツかったよ」。シノダはそう続ける。「金曜にショーがある週は特にね。友達を誘うんだけど、大体こんな風に返されるんだ。『月曜まで絵を3つ仕上げないといけないんだ。ショーに行ったら全部終えられなくなる』」

リンキン・パークのメンバーは皆、それぞれ似たようなエピソードを持っている。学業との両立、アルバイト、そして未契約のバンドがこなさなくてはならない様々なことを全員が経験していた。現在23歳のボードンは当時、サンタモニカ大学に通いながらボーリング場でウェイターとして働いていた。同じくArtCenterに通っていたハーンは在学中にシノダと出会ったが、フリーランスのイラストレーターとしてやっていくために1年で学校を中退し、映画に登場するモンスターやロボットのデザインを手がけていた。デルソンはUCLAに通いながら(マス・コミュニケーションの学位を保持)、シノダのベッドルームで曲作りに励む一方で、Zomba Musicでインターンとして働いていた。「ブラッドはアーティストがレコード契約を得るためにすべきことの全般をこなしてた」。当時デルソンの上司だったジェフ・ブルーはそう話す。「メイシー・グレイのデモテープを業界人に送ったり、ショーケースのアレンジなんかを手伝ってもらってたよ」

リンキン・パークはニューメタル界屈指の高学歴バンドであるだけでなく(同じくUCLAに通っていたマサチューセッツ出身のファレルはデルソンのルームメイトであり、哲学の学位を取得している)、計画性の面でも極めて優れていた。制作面やビジネス面など、各メンバーにはそれぞれの専門分野に応じた役割が与えられていた。ハーンはこう語っている。「そういうことを管理できてるやつらはほとんどいない。俺たちはバンドをキャリアとして捉え、本気で取り組んでた」

Translated by Masaaki Yoshida

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