シャーデーが1985年に語った、音楽との出会いと「引き算の美学」

音楽との出会い、バンド活動が転機に

14歳の時に初めてクラブに足を踏み入れた彼女は、そこでダンスとソウルミュージックに出会った。これらが彼女の冷めない情熱の向かう先となった。

「聴けるものはそれだけだった。好きになれそうだったのも」

彼女はそう言っている。ソウルはもちろん本場アメリカ産のものに惹かれたのだが、スティーヴ・ウィンウッドの声もツボに嵌まったようだ。地元のDJに、今夜の最後の曲はトラフィックの「ウォーキング・イン・ザ・ウィンド」にしてよね、などと頼んだりもしていたらしい。

ロンドンに出てきたのは17歳の時だ。ウェストエンドにあるセントマーティン美術大学で3年間ファッションと芸術の専門課程を履修するためだ。同時に彼女は首都のクラブバンドたちを観る楽しさというものも見い出した。学校を終えるとそのまま自立した。紳士服のデザインと販売の仕事を始めたのだけれど、これがせいぜいよくいって、どうにか帳尻を合わせ口を糊するような日々だった。ところが折よくこの時期は、かつてなく音楽とファッションとが接近していた時代でもあった。そこでバンドのマネージメントを専門にしていた知り合いの一人が、バックコーラスの仕事に興味はあるかと彼女に打診してきた時は、ほとんど渡りに船というか、それ以上のものに映った。

「ただ歌の話がきた時も、それで自分の人生をなんとかしようなんて発想はまだ欠片もなかった」

当時のことをシャーデーは笑顔でそんなふうに呼び起こす。

「私は編み物もしなければバドミントンだってやったことがなかったの。だからこう思ったわ。あら、ひょっとすると、これはいい趣味になるかも知れないわって」

この知人というのがリー・バレットで、バンドの方は当時プライドと名乗って活動していた。シャーデーは最初は断わられたのだけれど、グループは結局ほかの誰かを見つけることが叶わずに、最終的に改めて彼女に加入を打診した。やがてバレットが、彼女とプライドのメンバーのうちから数人だけで自分たちのレパートリーを仕上げ、プライドのステージの繋ぎにするようにとの指示を出した。かくしてバンドの方のシャーデーが、ロンドンの一流ジャズクラブであるロニースコッツでのプライドの舞台で、とりあえずの第一歩を踏み出してみる運びとなったのだった。ほどなくしてシャーデーらの方が母体のショウよりウケがいいことが明らかになってくると、同バンドでサックスとギターとをプレイしていたステュワート・マシューマンがシャーデーと共同で曲を書くようになった。


プライド時代、1982年のライブ映像

Translated by Takuya Asakura

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