シャーデーが1985年に語った、音楽との出会いと「引き算の美学」

シャーデー・アデュの生い立ち

ナイジェリア生まれのヘレン・フォラシャーデー・アデュの人生にはいつも違和感がつきまとっていた。彼女の両親が出会ったのは50年代だ。ナイジェリア人の父親がロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで修士課程を履修していた時期になる。結婚し、長男が生まれたところで二人はナイジェリアに帰国し、イバダンという町に居を構え、そこで父親は教師の仕事を見つけた。1959年にはシャーデーが生まれた。

けれど両親の関係は長続きはしなかった。

「父というのはとても気難しい人だったのよ」


Photo by Gered Mankowitz/Redferns

1963年までにはすでにシャーデーはイギリスに移り住んでいた。母と兄、それに母方の祖父母と一緒にグレートホークズリーというエセックスの小さな村にいたのだ。英国史上最も苛酷だった冬にちょうど間に合ってしまった形になる。

「目に入るもの全部白か、さもなければ緑色だった。どこもかしこも白か緑」

シャーデーはそんなふうに記憶しているらしい。

「私はそれまで雪なんて見たこともなかったのよ。しかも祖父というのがちょっとばかりしみったれな人で、私たちの部屋には暖房も入れてくれなかったの。結露になったところからはじき氷柱が生えてきたし、窓枠の棚のところには氷が張ってた。本当にひどいものだったわ」

看護学校を卒業した母親は子供たちを連れとりあえずは自立した。しかしこちらも結局は一時の仮住まいに終わった。シャーデーが10歳になった時、母親は“いかれ肉屋(マッドブッチャー)”なる相手と再婚し、家族はホランドオンシーに移った。

「ゴーカート場みたいな海辺の町よ。プードルとお婆ちゃんたちでいっぱいだった」

Translated by Takuya Asakura

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