ビートルズ最後の傑作『アビイ・ロード』完成までの物語

ザ・ビートルズ(Photo by Hans J. Hoffmann/Ullstein Bild/Getty Images)

ローリングストーン誌による「歴代最高のアルバム500選 | 2020年改訂版」の関連企画として、重要作の制作過程に焦点を当てた記事を公開する。今回は5位のザ・ビートルズ『アビイ・ロード』(1969年発表)について。人間関係は最悪となっていたが、バンドは再び一つにまとまって最後の傑作を生み出した。(※以下の記事は、2011年のRS誌ビートルズ特集号が初出)


●【画像を見る】ビートルズの素顔を捉えた、1965年の未発表写真ギャラリー



彼らの終焉の日々を決定づける形となった軋轢の中、いよいよビートルズは自分たちの最後の、そして極めて重要な意味を持つであろう共同作業のために再結集した。それは7年に及んだ協調の一つのクライマックスだった。一緒に成長し、そして今や別々の道へと歩み出すことを始めていた4人は、やりかけのままだった作品の断片を集めなおし、それらを輝かしき記念碑へと作りかえたのだ。

ある時点まで同作は『エヴェレスト』というタイトルになる予定だった。バンドの経歴の最高峰という意味だ。『ホワイト・アルバム』の制作過程で生じていた小さくない怨嗟と、やがては来たる1970年に彼らの最後のアルバム『レット・イット・ビー』として世に出ることにもなる例の災厄のようなセッションの後では、ビートルズも慣れ親しんだ場所へと立ち戻る必要があった。解散のぎりぎり瀬戸際というこの状況で彼らは、年来のつき合いだったプロデューサーであるジョージ・マーティンを呼び戻し、古巣とも呼ぶべきスタジオへと還ることにした。アビイ・ロードだ。せめて自らの手で最後通牒を刻み込むためだった。



「昔やっていた通りにやろうと思うんだ」

ポ―ル・マッカートニーはマーティンにそう言ったのだと伝えられている。

ある意味、彼らはこの言葉通りにやった。アルバム『アビイ・ロード』は6カ月という時間をかけて少しずつ形になっていった。収録がほかの場所で行われたこともあれば、マーティン抜きという場面もあった。

1969年2月22日、ビートルズはハンブルグ時代からの旧知である鍵盤奏者のビリー・プレストンとロンドンのトライデントスタジオで再会し、ジョン・レノンの作品である、スロウでありながら躍動的なロックナンバー「アイ・ウォント・ユー」の収録から着手した。同曲のあからさまな欲望の告白は、彼ら自身の極初期の、単純だった感傷を呼び起こす契機ともなり、ある意味ではアルバム全体の“帰ってきたんだ”という空気を築いてくれもした。しかし続く2カ月ほどの間、4人揃って仕上げられるだけの時間が確保できたのは結局この一曲だけだった。それぞれが別々の仕事に散っていってしまったからだ。リンゴ・スターには映画『マジック・クリスチャン』の撮影があった。ポールはリンダ・イーストマンとの結婚を控えていたうえ、メリー・ホプキンとジャッキー・ロマックスのプロデュースも引き受けていた。同じく結婚の運びとなったジョンとヨーコ・オノとは、まずパリへと向かい、それから式のためジブラルタルまで足を伸ばし、一旦フランスに戻った後はそこからアムステルダムへ行き、同地で平和運動(ピース・ムーヴメント)を広めるべく1週間をベッドに横になったきりで過ごし、最後にウィーンに立ち寄ってからようやくロンドンへと帰ってきた。

この旅行日程に多少でも“慣れ親しんだ”ものがあったとすれば、それはジョンがこの一連をただちにビートルズのシングルとしてまとめ上げたことだろう。「ジョンとヨーコのバラード」だ。4月14日、彼はポールと二人、アビイ・ロードでの一度きりのセッションでこれをレコーディングしている。ジョージ・ハリスンとリンゴは不在だった。

Translated by Takuya Asakura

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