ビートルズ最後の傑作『アビイ・ロード』完成までの物語

ジョン・レノンの脱退宣言

9月12日のことだ。親しい記者たちとの雑談の中でジョンは、ほかの人たちともずいぶんやったけれど、と前置きしたうえで、こんなことを宣言した。

「だけどまあ、もしまたレコードを作りたくなったビートルズとやるな」

そればかりか、制作中だったドキュメンタリーフィルム『ゲット・バック』の公開予定となっている1月頃には、また全員でレコーディングしているだろうとも発言した。

これと同じ日に、興行主(プロモーター)のジョン・ブラウアーが、トロントで予定されていた自身主催の「ロックンロール・リヴァイヴァル・フェスティヴァル」への出演をジョンに打診した。出演者の中にはチャック・ベリーやリトル・リチャード、ジェリー・リー・ルイスらが名を連ねていた。ジョンの方もほぼ脊髄反射的に快諾し、翌日には当座寄せ集めたプラスティック・オノ・バンドを率いてカナダに飛んで、同夜のうちにもう舞台に立ち、そしてそこで唐突にビートルズを辞めることを決意した。この時のステージは、3カ月後にはもう『平和の祈りをこめて』としてリリースされる運びとなった。

戻ってきた彼はメンバーに向け、自分はもうバンドを去ることにしたと告げた。彼らはこれを極秘扱いとすることにも同意した。ちょうどマネージャーのかの悪名高きアラン・クラインが、バンドにもっと有利になるぞと嘯きながら新たな契約条件を調整している最中でもあったし、そうでなくてもジョージとリンゴは二人とも、一度辞めると宣言してから戻ってきた過去があったからである。しかしこの数日後にジョンは、シングル用の「コールド・ターキー」を、ビートルズではなくプラスティック・オノ・バンドと一緒にレコーディングしたのだった。なお、この時の同バンドのメンバーは、リンゴとエリック・クラプトン、それにビートルズの年来の盟友クラウス・フォアマンだった。

その後にも残務整理めいた仕事が幾つか続いた。まず「サムシング」のミュージックビデオが制作されたのだが、ここではバンドメンバーが、誰にせよほかのメンバーと一緒に映るようなことも一切なかった。それからファンクラブ用のクリスマスレコードも作られたが、個々が自分の分の素材を別々に送るような形だった。『レット・イット・ビー』用の最後の追加セッションは、ジョン不在のまま実施された。『アビイ・ロード』は様々な意味で、バンドが一緒になって目指してきたことの一つの到達点だった。しかし1969年10月1日に同作が店頭に並ぶ頃には、もうビートルズはすでに実質的に消滅していたのである。


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From Rolling Stone US.

Translated by Takuya Asakura

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