追悼エディ・ヴァン・ヘイレン、ギターと共に歩んだ65年の人生

ヴァン・ヘイレン一家が米国に移住したのはエディが8歳のときで、家族はカリフォルニア州パサデナに落ち着いた。デイヴ・クラーク・ファイヴに夢中になったことがきっかけで、エディはドラムを始め、兄アレックスはギターを手にした。そして運命の日が訪れる。ザ・サーファリーズの「ワイプ・アウト」のドラムが上手く叩けなくて機嫌が悪くなったエディは、アレックスと楽器を交換することにし、これがそのまま定着したのだ。

1970年代初頭、二人は矢継ぎ早に幾つものバンドを組んだ。ブロークン・コンボズ、トロージャン・ラバー・カンパニー、ジェネシス等など。しかし、どのバンドでも満足できないヴァン・ヘイレン兄弟は、遂にカリスマに溢れたデヴィッド・リー・ロスという裕福な医者の息子と出会う。「PAを持っていたのがロスだけだった。俺たちは毎週末ギャラが50ドルのギグをするのに彼のPAを35ドルで借りていたんだ。だから、ヤツをバンドに入れると安くなるってことだった」とエディ。

ロスがリーダーとなり、ベースにマイケル・アンソニーが入ったバンド、ヴァン・ヘイレンは、パサデナのロック・サーキットで最も人気のあるバンドになった。彼らは裏庭でのパーティーやストリップクラブなど、演奏させてくれる場所ならどこでも演奏した。当時の彼らのレパートリーの多くはカバー曲だったが、「悪魔のハイウェイ」「サムボディ・ゲット・ミー・ア・ドクター」など、ゆっくりとオリジナル曲を増やしていったのである。キッスのフロントマン、ジーン・シモンズは彼らとデモ曲を録音して、どこかとレコード契約を結ばせようとしたが、レコード契約には一切見向きもせず、最終的にヴァン・ヘイレンがレコード契約に合意したのは、彼らのライブを観に来たワーナー・ブラザースのモー・オースティンが1977年に提示した契約だった。

何年も続いた過酷な巡業活動でバンドとしてのタイトさが増し、プロデューサーのテッド・テンプルマンはバンドのタイトさをプロの技でしっかりテープに収めた。特に「暗闇の爆撃」のギター・ソロは、エディの卓越した技術が突出しているし、キンクスのカバー曲「ユー・リアリー・ガット・ミー」では、誰もが知っているロックのスタンダード曲をエキサイティングで新鮮な曲に変えるバンドの力量を見せつけた。

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しかし、彼らのデビュー・アルバム(1978年)をビルボード200の19位まで上昇させ、ブラック・サバスのツアーのオープニング・アクトに選ばれたきっかけは「叶わぬ賭け」「ジェイミーの涙」などのオリジナル曲だった。「3年前の俺は……他の連中と一緒にエアロスミスを観るためにステージの前を陣取っていた」と、エディは1980年にローリングストーン誌に語っていた。「なのに、それから1年後にはエアロスミスとプレイしていた。死ぬほど驚いたよ。だって、俺はずっとギターを弾くとは思っていたけど、今のような立場になるなんて想像すらしていなかったもの」と。

デビュー・アルバムの次にリリースされたのが翌年(1979年)の『伝説の爆撃機』で、シングルカットされた「踊り明かそう」「ビューティフル・ガールズ」がヒットした。この後5年間の彼らは記憶が曖昧なほどに多忙を極め、アリーナをソールドアウトにし、乱痴気騒ぎを繰り広げ、大ヒットアルバムを続けざまにリリースした。ヴァン・ヘイレンにはラジオ局で流れるようなヒット曲は多くなく、大抵のシングル曲が「ダンシング・イン・ザ・ストリート」「オー・プリティ・ウーマン」などのカバー曲であっても、だ。この理由は、のちにエディがバンド内の確執の結果だったと説明している。

Translated by Miki Nakayama

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