ザ・バンド『ラスト・ワルツ』が史上最高のライブ映画となった理由

マーティン・スコセッシによる画期的手法

ロバートソンがもう十分だと判断し、ザ・バンドでのライブはこれ以上やりたくないと感じた時、ラストコンサートのアイディアをサンフランシスコでプロモーターをしていたビル・グレアムへ持ち込んだ。サンフランシスコは、彼らがザ・バンド名義で初めて演奏した場所だった。ロバートソンはまた、彼らの最後の姿を映像として残せないかとも考えていた。もともとウッドストックの住人だった彼らは、自分たちの住む場所へと押し寄せた長髪の若者たちに混じり、時代を代表するコンサートへも参加した。しかし彼らのパフォーマンスはドキュメンタリー映画には収録されていない(ほとんどの人は、ザ・バンドがこの3日間の平和と音楽の祭典に出演したことすら知らないだろう)。ロバートソンは、バンドのツアーマネージャーを務めるジョナサン・タプリンが、かつて映画『ミーン・ストリート』をプロデュースしたことを思い出した。さらに同映画の監督は、映画『ウッドストック』の編集にも携わったロックンロールを愛するエネルギッシュなイタリア系アメリカ人だ。というように、自分たちと縁が深い人物がそこにいた。

マーティン・スコセッシは当時、伝統的なハリウッドのミュージカルと新しいハリウッドのリヴィジョニズムとを融合させようとして結局は失敗に終わった映画『ニューヨーク・ニューヨーク』の仕上げ作業に忙殺されていた。そんな時期にロバートソンとタプリンは、スコセッシに連絡を取った。彼は自分の映画を仕上げるまでは他の仕事を受ける気もなかったし、プロデューサーたちも許すはずがなかった。しかしロックの荒々しい一時代の終わりを象徴する出来事に立ち会えるということと、当時のポピュラー音楽を代表する有名人が並ぶゲストリストを目にすれば、依頼を断るという選択肢はなかったはずだ。ビル・グレアムの口述自伝『Bill Graham Presents』によると、スコセッシは「私に選択の余地はない。私がやらねばならない」と述べたという。



感謝祭の夜に行うショーへ向けた一連の作戦会議が、秘密裏に進められた。プロダクション・デザイナーのボリス・レヴェンはサンフランシスコ・オペラハウスからオペラ『椿姫』のセットを借り、さらに映画『風と共に去りぬ』で使用されたシャンデリアも持ち込んで舞踏場を演出することとなった(しかしグレアムは、会場のコンセプトを考えついたのは自分である、とずっと主張していた)。撮影は当時の音楽系ドキュメンタリー映画で一般的に使用されていた16mmのボレックス製手持ちカメラではなく35mmカメラを採用し、一流のカメラ担当を揃えて撮影と同時録音を行った。セットリストと各楽曲の歌詞に合わせた詳細な台本が用意されたため、撮影監督を務めたマイケル・チャップマンはどこに何台のカメラを配置するかを計画できた。さらにカメラは盛り上がる観客ではなく、専らステージ上のミュージシャンに向けられた。「観客中心の映画は、モンタレー・ポップやウッドストックで既に作られてきた」とスコセッシは、リチャード・シッケル著『Conversations With Scorsese』で語っている。「今回の映画は別物だ。音楽を中心としたカメラワーク、編集、ライブ・パフォーマンスの記録など、私にとってはその手法が重要だった」。

全てが画期的だった。『ラスト・ワルツ』は今なお、スコセッシの言うカメラワーク、編集、記録の全てを同じように重視した唯一のコンサート映画といえる。しかしグレアムは事あるごとに、スコセッシのチームが「重要な点を見逃している」と指摘していた。ロバートソンの言葉を借りると「白いハットをかぶったキリストのような」ボブ・ディランを見るために、25ドルも支払って集まった観客に対する配慮が欠けている、とグレアムは主張したのだ。コミュニティ意識に欠ける、と彼は不満を漏らした。しかし大いに盛り上がるステージ上のコミュニティを収めた本作品は、何よりもアーティストのパフォーマンスを優先したコンサート映画に仕上がった。以降スコセッシは、この表現方法を踏襲している。スコセッシ曰く、女の子たちが客席で顔を見合わせて笑うシーンから、タイガービート誌のピンナップのようにリック・ダンコの姿を映し出すことには興味がなかったという。それよりも、ヘルムがダンコの方をちらりと見てビートを刻み、楽曲「オフィーリア」のブリッジへ突入する。彼はそういったシーンが撮りたいと思っていた。ミュージシャンたち、特にザ・バンドのメンバーがスポットライトの下で生み出す魔力の映像化だ。

Translated by Smokva Tokyo

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