フリート・フォクシーズのロビンが語る「死」からの学び、コロナ禍に再発見した音楽の力

 
こんな時代に、僕はまた音楽に情熱を感じている

―そういえば、あなたは、コロナ禍になる前、曲作りのためにポルトガルに旅をしていたそうですね。そして実際に「Going-to-the-Sun Road」ではなんとブラジルのバンド、オ・テルノのチン・ベルナルデスがポルトガル語のヴォーカルで参加しています。

ロビン:うん、実は去年、ポルトガルに移ろうかと考えてたんだ。ニューヨークというかアメリカは物価も高い。ポルトガルのどこかに古い家を安く買い、自分でリフォームしながら田舎暮らしをしたいというロマンティックな夢を持ってたのさ。そういう移住者が市民権をもらえるプログラムがあるんでね。しばらく住んでいたのはコルク樫の木や小麦畑が広がる美しい場所だった。でも今のこの状況だと、それはオプションですらなくなっちゃったんだけどね。



オ・テルノの2019年作『<Atrás/Além>』は、坂本慎太郎やデヴェンドラ・バンハートの参加もあり日本でも話題に。

―ポルトガルにはファドという素晴らしい音楽財産がありますよね。ファドは今に生きる人々と大地の心の叫びを歌う音楽ですが、あなたのヴォーカルにも昔からそのファドの要素を感じることができました。ポルトガル滞在時にはファドや現地の音楽を聴いたりしていましたか? 

ロビン:ああ、ファドは色々と知ろうとしたし、聴いたよ。僕が暮らしてたのはアレンテージョ地方で、その地域独特の男性の合唱音楽があるんだ。男たちが労働中に歌うワークソングだったり、ラヴソングだったり。歌われる内容もごく日常のこと。生活がいかに苦しいか、リスボンに移りたい願望とか……。実際に知り合いになったわけじゃないけどヴィデオとかがたくさんあるよ。Cante Alentejano……アレンテージョの歌謡というんだけど、今も仕事の後には酒場に集まり、皆で歌っているんだ。

―前作制作時には西アフリカのグナワの音楽の影響を受けていると話してくれましたし、今作にもその影響が散見されます。そうした新旧世界中の歴史ある素晴らしい音楽を相手に、現代に生きる一人のアメリカ人として新しいポップ・ミュージックを創作していくことに対して、あなたはどういう志や思いを礎にして挑んでいると言えますか?

ロビン:まずそれに挑む時に注意するのは、自分のために利用していることにならないようにするというか。鍵となる教えや概念だけを取り出し、違う形に応用する。例をあげるなら確かに「Cradling Mother, Cradling Woman」のテンポを作っているポリリズムの一つにはグナワの影響がある。あの曲では3つの異なるリズム、4つのパターンが混じり合っていて、メロディには世界中の各種民謡音楽に存在するペンタトニック・スケールが使われている。そういう要素は“ワールド・ミュージック”的だと言える。でもその一方で、それとはまったくかけ離れた発想に基づく要素もある。スティーヴ・ライヒのような派手なホーン・セクションだったり、ビル・エヴァンス風のピアノだったり、ビーチ・ハウスのようなエレクトリック・ギターだったり。そういう風に十分なだけの音楽要素をブレンドすれば、ただ単にアフリカの音楽をコピーしてるとかにはならない。そのことは常に意識しているよ。十分なものをブレンドすることで、ちゃんとしたブレンドになるようにね。



―そういった一定の敬意と刷新を意識しながら、現代のポップ・ミュージックを新たに作る作業には、ある種の重荷のようなものもあるかとは思います。一方で、録音技術や制作における斬新なアイデアなど、現代だからこそなしえるプラスの材料も当然あるはずですよね。これまでの音楽の歴史の中で、やはり今のあなたのように過去世界中の様々な音楽財産と格闘し刷新してきた先輩たちにはない、今のあなただけがなしえるものがあるとすればどういう部分だと思いますか?

ロビン:そういうことは考えたことがなかったな……(しばし考えて)……なんだろう、実は今回のゴールの一つに、サウンドはアナログなんだけど“これはコンピューターがないと絶対に作れなかったな”と思えるようなレコードを作るってことがあった。でも決して……うーん、ごめんね、なんて言ったらいいかなぁ……(言葉を探しながら)まるで1970年に作られたかのようなサウンドなんだけど、実際にそうではないことが明らかな、奇妙なタイムレスさがあり、新しくないけど古くもない、未来から来たわけでもない、別の何かだって思えるもの。そういうものが作りたかったんだと思う。それが例えば僕とアーサー・ラッセルの違いじゃないだろうか。僕はアーサー・ラッセルを聴いてインスピレーションを受けてきた。もちろん、アーサー・ラッセルにはアーサーが好きで聴いてインスピレーションを受けてきた別の人たちがいたんだろう。でも、そういう側面だけじゃないよね。僕が面白いなと思うのは、年ごとに“ファッショナブルになる古い音楽”みたいなのがあるじゃない? マイクロトレンドというか。今は誰もが80年代の日本の音楽を聴いてたり、70年代のザンビアの音楽だったりするよね。その時々で、敬われる昔の音楽が生まれているのが客観的に面白いなって思う。そういうことはよく考えるよ。


Photo by Emily Johnston

―トレンドが時代とともに変化するのはとても興味深いですが、と同時に、現代は性差の境界も曖昧になって変化してきています。ジェンダー云々の話になると難しい問題が生じるかもしれませんが、あなたの作る歌詞、そしてヴォーカル・スタイルにはフェミニンな側面が強くあり、これまでの男性性、女性性のようなものへの一定の批判と、個々の価値観を受け入れるおおらかな姿勢も感じらます。「Cradling Mother, Cradling Woman」という曲などはまさにそうした目線が現れているようにも思えますが、そもそもあなたがあの曲に込めた意味はどのようなものだったのでしょうか?

ロビン:ああ、すごくいい指摘だね、それ。実際、アルバム中いくつかの場面でジェンダーレスな歌い方をしようとしたんだ。たとえば「Featherweight」のヴォーカルは“あえてなにものとも戦わない”、言うならば“感情のない”、どこからか聴こえる声のようにしたかったんだ。男でもない、女でもない、僕ですらない。そういう自分の主体性をなくしたいと思うことはこれまでもあった。実際に自分の曲で自分以外のシンガーに歌ってもらったのは「Wading In Waist-High Water」が初めてだったけどね。僕が感じている僕を、僕よりずっとうまく伝えられる、僕がそうであってほしいと感じているフィーリングを誰かに……ということ。それ以外は僕が、低く歌ったり高く歌ったり、大きく歌ったり……としながら僕の中にいろんな自分を住まわせる。

「Cradling Mother~」に関しては……7月~8月にかけてアルバムを作っていた時、音楽がとても楽しくてさ。それは音楽から離れてた3カ月のブレイクを経ていたせいかもしれない。ライヴ・ミュージックにとっても飢えていたんだろう。スタジオを介して色々な人たちと会い、音楽によって人が繋がれることを本当に嬉しいなと感じていた。自分にとっての音楽の重要性を改めて感じたというか“こんなに多くを僕は音楽からもらっているんだ”という感覚だった。「Cradling Mother~」が描く人物は、まさに僕にとっての音楽なんだ。再びまた音楽に恋をすることを歌っている曲……というか。もちろん、コロナもあってたくさんの物事が崩れ落ちたけど……そう、例えば、こういう風に想像してみて。僕が着ている服はボロボロで髪もボサボサ。でも手にはギターがあって、一緒に音楽を演奏する友達がいる。こんな時代に、僕はまた音楽に対して情熱を感じていて。そこから生まれた歌詞なんだ。つまり、「Cradling Mother」っていうイメージは音楽そのもののこと。だからあの曲には音楽がぎっしり入っているのさ、リード・ヴォーカルを包み込むようにね。ブリッジのホーンだったり、ワイルドで大きなものになるアウトロだったりね。



―つまり、今回の作品はすべてコロナ以降の曲ということですね。一度はある程度完成していたのに今一度曲や歌詞を作り直したことで、それまでに作っていた方向性とはどのように変化していったのでしょうか? 

ロビン:うん、すべて自己隔離中に書いたものだ。ただし、いくつかのアイディアはここしばらく暖めていたものだよ。このアルバムを“For Richard Swift”という1行でスタートさせたいという思いは、ここ数年前から思ってた。でもどうやって曲にしていいか分からずにいたんだ。コロナ以前は特に歌にしたいと思えるパーソナルな出来事がないままに、ただただアルバムに取りかかっていたというか、曲を仕上げようとしていた気がする。僕は歌詞に関して、作り話を作り上げるのは好きじゃないタイプだ。それでもその時は、ただ視点がないままに曲を作っていたのだと思う。ところがコロナ禍で書けた歌詞は、当然ながら、その真っ只中から生まれた歌詞だった。その時起きていたこと全てのこと、それがどう音楽と関わるか、僕個人と、家族と、友人と……不安をどう振り払うかってね。それでそれまで抱えていた不満などもどこかに消えちゃったよ。このコロナ禍でそんな小さなことを言っているのはあまりに身勝手だと思えるようになったからなんだ。そういったいろんなことを考える3カ月があったから生まれた歌詞なんだと思うよ。

―曲が固まってからの作業は早かったわけですね。

ロビン:そう。最後の作業はエレクトリック・レディ・スタジオ、そしてダイアモンド・マインド・スタジオでの作業で、すべてをベアトリズ・アルトーラと行なった。彼女は本当に素晴らしい才能あるエンジニアだ。僕も彼女も仕事をする時は1日中働き続けたいタイプで、休憩も取らないし、オフの日もない。アルバム完成に向けての持久走を駆け抜けてたんだ、二人してね。6月に歌詞が書けた段階で8月末にはアルバムを終わらせることができたし、ミキシングも終えて9月22日に出せることが分かった。その時には、サウンドに関して終わらせるのに必要なことはどうにか出来るってね。あとは毎日スタジオに行き、必死でやることをやり、ソファでうたた寝して……。テレビのニュースに仕事の手が止まっちゃうこともあったけど、自分以外の人間と時間を過ごせたこと、会えたことは良いことだったね。楽しめるレコーディング最終パートだったよ。

―では、このアルバムはフリート・フォクシーズというバンドにとってどのような位置付けになる作品でしょうか。

ロビン:僕にとってこのアルバムと前作『Crack-Up』は陰と陽の関係だ。2枚で一つというか。そういうアルバムを作りたいとずっと思ってたんだ。『Crack-Up』でのハマヤの写真は日本で撮られたものだけど、今回ジャケットに使わせてもらったのは、同じハマヤの作品でもこちらはアラスカで撮られたものだった。僕が見た彼の写真集にあった写真なんだけど、アラスカの三角州で西の方角を向いている。黄金の川の流れが交錯してて、まるで抽象画のようだ。日本とアラスカは太平洋の正反対にあることを考えたら、そんな二つの大陸を撮った一人の写真家による写真。しかも同じ水を見ているんだけど、その捉え方や考え方も違う。それがアルバムの中にある“絡み合う”要素とも重なる気がした。ヴォーカルがあるメロディを作る時、楽器はそのカウンターポイントだったりというようにね。絡み合い、複雑なんだけど、穏やか。そんなイメージさ。

―ところで、これまでのアルバムではずっと「山」をテーマにした曲が必ず含まれていました。今作には一見すると太陽、月、水、海などは出てきても直接的に「山」は出てきませんが、どこかで地続きに連鎖している実感はありますか?

ロビン:ああ、確かに直接的には出てこないね、うん。でもさっき話した「Cradling Mother~」。あの言葉自体は実は「山」からきているんだよ。実はネパールでトレッキングをしたことがあって……エヴェレスト・ベースキャンプを目指す3~4週間のルートなんだ。トレッキング中、常にはっきりと右手に見える山が一つあって、それ以外の山はそれほど見えないんだ。エヴェレストも雲に隠れてて見えなかったし、エヴェレスト自体には登っていないんだけどね、僕は。でも唯一見えていたその山は、まるで女性が両腕を下に下ろしているようなきれいなフォルムで、アマ・ダブラムっていう名前の、ヒマラヤ山脈の山だった。すると、すれ違った誰かが、山を指差して言ったんだ。「Cradling Mother(赤ん坊を抱いている母親)だ」って。その瞬間思ったよ。「ありがとう、いつの日か曲のタイトルに使わせてもらわないと!」ってね。僕自身、あの曲の中では山というよりは、音楽自体がCradling Motherなんだという意識なんだ。でも何週間ものトレッキングの間中、あの山が僕にとっての守護山のような存在だったもんだから、そこからあのタイトルがついたというわけさ。




フリート・フォクシーズ
『Shore』
配信中(フィジカルは来年2月5日リリース予定)
視聴リンク:https://silentrade.lnk.to/shore

Translated by Kyoko Maruyama

 
 
 
 

RECOMMENDEDおすすめの記事


 

RELATED関連する記事

 

MOST VIEWED人気の記事

 

Current ISSUE