日本ポップロックの革命の時期 1980年代後半の佐野元春作品を振り返る



田家:先週はアルバム『VISITORS』の話をしました。今週は帰国後からという話になるのですが、帰国後の活動についてはNY以前、以後と分れるほどに多彩になったなと思っています。その一つの例、バンドTHE HEARTLANDにホーンセクションの東京ビーバップが加わった。

佐野:そうだね。バンドが拡充した。それまで5人だったのが、キーボードが2人になって6人編成。さらにブラスセクションに東京ビーバップ3人という大編成になっていった。

田家:『VISITORS』のツアーはそれまでで最長で70本の公演がありました。ステージにはビデオアートのパイオニア、ナム・ジュン・パイクの映像が使われていた。

佐野:音と映像の新しい文化が始まろうとしていた。アルバムだけでなくライブパフォーマンスにも新しさを求めました。

田家:1983年のツアー「ロックンロールナイト・ツアー」とは全然違うものでしたけど、佐野さんの中では、どんな手応えだったと。

佐野:それまでは白人のポップ音楽のフォーマットを下敷きにやっていたけれど、『VISITORS』以降はどちらかというとリスム & ブルースの要素を前に出していった。

田家:「ヤングブラッズ」はシングルカットもされて、ジャケットには紛争地域をマーキングした世界地図というのが描かれており、アフリカの難民チャリティーに寄付されたりしていました。

佐野:そういうアクションも含めて、ポップ音楽ができる可能性を試したかった。

田家:1985年から1986年、これは大きな出来事と思われることが3つありました。一つは、エレクトリックサウンドとポエムという形を作られたカセットテープ「スポークン・ワーズ」。もう一つはご自身の音楽レーベルM’s Factoryを始められて、さらに活字の機関誌「THIS」を立ち上げられた。

佐野:ポップ音楽のレボリューションだと思っていた。ただの芸能音楽で終わるのではなくその先の文化まで持っていく。自分たちの世代でそれを担っていこう。今振り返るとそんなことを思っていました。

田家:担っていたのかなっていう客観的というか謙虚な言い方をなさりますが、でも何か激しいものに突き動かされていないと、これだけ具体的な動きはできませんよね。

佐野:そうかもね。それまでの業界的な慣行に捉われないで、好きなことをやった。雑誌やラジオ番組で自前のメディアを持った。今でいうクラブイベントを開催した。今振りかえれば相当ラディカルだった。だから業界の古い人たちはついて来られなかった。

田家:そういう中で制作されたアルバム『Café Bohemia』から「ワイルド・ハーツ -冒険者たち」。

Rolling Stone Japan 編集部

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