キース・リチャーズが現在の心境を語る「生涯現役は当たり前、ステージが俺たちの居場所」

『羊の頭のスープ』とジャマイカの記憶

ー『羊の頭のスープ』についてお話を聞かせてください。

キース:長いこと聞いてなかった作品を聴き返すと、いつも変な気分になるんだよな。あれはすごく面白いレコードだと思うよ。ジャマイカで1973年にレコーディングしたんだけど、あの年のことははっきり覚えてる。なぜかというと、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズが『キャッチ・ア・ファイアー』をリリースした年だからさ。(ジミー・クリフ主演のレゲエ映画)『ハーダー・ゼイ・カム』のサントラが出た年でもある。ジャマイカで過ごした時のことは忘れられないよ。他のどの街とも違う、独特の雰囲気が漂ってた。それが最高に心地よかったんだ。

ー『ハーダー・ゼイ・カム』のサントラは、レゲエが世に広まる大きなきっかけになりました。入門書としても素晴らしい内容ですよね。

キース:間違いないね、レゲエのことを知りたい人にはもってこいだ。ジャマイカのバイブを感じられるはずさ。少なくとも、俺はそれを肌で感じてた。セッションを終えた後もそれが忘れられなくて、俺は結局トンボ帰りして何カ月か暮らした。その時に知り合った連中が、(1997年発表の)ウィングレス・エンジェルスのレコードに参加するんだ。ジャマイカは俺の第2の故郷になった。あのアルバムのセッション中は、みんな何かに取り憑かれたように働きっぱなしだった。深夜から朝の10時まで、文字通りノンストップで録り続けてたんだ。そんな感じだったから、ジャマイカの魅力に触れる余裕も時間もなかった。俺がその魅力に気づいたのは、セッションを終えてオーチョ・リオスに住み始めてからさ。あの町で暮らしながら、ジャマイカの人々のことが好きになっていったんだよ。


ジャマイカのキングストンで行われた『山羊の頭のスープ』の制作中、インタビューに応じるキース・リチャーズ。1973年12月9日撮影。(Photo by Koh Hasebe/Shinko Music/Getty Images)

ージャマイカでレコーディングするという案自体はどこから? あなた方を受け入れる国が他になかったという説もありますが、それは事実ですか?

キース:基本的にはね。実際、当時ジャマイカは俺たちが入国できる数少ない国のひとつだった。『メインストリートのならず者』を作ってた頃、俺たちの周囲は何かと騒がしかった。だからみんなでイングランドを離れて、俺の家(フランスにある邸宅「Nellcôte」)の地下室に住みながらレコーディングを続けた。あの頃、俺たちは朝から晩まで一緒にいたんだよ。でも数年後に『山羊の頭のスープ』を作り始めた頃には、状況が大きく変わってた。ミックはビアンカと結婚してたし、チャーリーはフランスに住んでた。俺たちは流浪者同然で、みんな別々の街で暮らしてた。ミックと俺はそれぞれ、1人で曲を書く術を学ばないといけなかった。それまではホテルの隣りの部屋にいたり、お互いすぐ近所に住んでたからな。互いに離れて暮らしながら曲を書いたのは、あれが初めてだった。

ーそれはソングライティングにどう影響しましたか?

キース:客観的に見るのは難しいけど、俺はいい仕事をしたと思ってるよ。「ダンシング・ウィズ・ミスターD」は今聴いてもファンキーだし、「ハートブレイカー」もいい。あのセッションにはビリー・プレストンの他に、ニッキー・ホプキンスとイアン・スチュアートも参加してた。最近聴き返した時に初めて、俺はあのレコードの明確なファンクのカラーに気づいたんだよ。

ー「全てが音楽」から「ハートブレイカー」まで、サウンドの面でも音楽性の面でも、実にバラエティに富んでいますよね。

キース:そうだね。1973年当時は俺たちもよくファンクを聴いてたし、そういうカラーが自然に出たんだと思う。ミュージシャンは誰でも、好きな音楽に影響されるもんだからね。ジェームス・ブラウンが出てきて以来、チャーリー・ワッツはずっとファンクのリズムに夢中だったし。だからそういう影響がサウンドに現れたのは、ごく自然なことだったんだよ。

Translated by Masaaki Yoshida

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