シャーマンのレッド・ホット・チリ・ペッパーズ在籍期間は1983年12月から1年余りで、創設メンバーのヒレル・スロヴァクに代わって、ギタリストとしてセルフタイトルのデビュー・アルバムに参加した。シャーマンは2作目『フリーキー・スタイリー』でも多くの曲を共同作曲していたが、1985年初頭にスロヴァクが同作のレコーディングに先立って再加入したため、バンドは緊張感が高まるなか、シャーマンとの別れを告げた。
その後すぐに、シャーマンはボブ・ディランの1986年作『ノックト・アウト・ローデッド』に起用され、トム・ペティ、ロニー・ウッド、デイヴ・スチュワート、マイク・キャンベルと並んでクレジットされた。
シャーマンはレッチリに復帰し、1989年にリリースされた『母乳』収録の2曲でバック・ヴォーカルを担当。スティーヴィー・ワンダー「Higher Ground」のカバーにも貢献した。
シャーマンの在籍期間は短かったが、彼の存在はバンドにとって不可欠なものだった。アンソニー・キーディスは、スロヴァク脱退後のグループを「沈没」から救ったと信頼し、自身の回顧録にもそう記している。しかしシャーマンは、2012年にロックの殿堂入りしたバンドメンバーの中に含まれていなかった。
「このように祝福されている光景から外されてしまうのは本当に辛いことだ」と、シャーマンは当時のビルボード紙に語っている。「自分がバンドに何かをもたらしたと主張しているわけではないが……困難な状況下で努力を重ね、それを仕事をしてきた、振り返ってみるとそうだと思うんだ。それを侮辱された。俺は侮辱されたんだ、最低だよ」
その一方で、レッチリのデビュー・アルバムをプロデュースしたギャング・オブ・フォーのアンディ・ギルは、2012年にシャーマンについて次のように述べている。「私は彼がバンドの歴史にとって重要な存在であり、ファンク・ギターを導入することに非常に貢献したと思っている」
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Rolling Stone US.