ザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』知られざる10の真実

9. 不運と交通事故が重なってバンドがツアーに出られなかったため、Capitolは不可解なプロモーションキャンペーンを企画した

1968年夏に『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』がリリースされた後、バンドがツアーもインタビューも行わなかったことは、アルバムのセールスに深刻な影響を及ぼしかねなかった。しかし、必死の宣伝活動という業界の風習に従わない彼らの姿勢は音楽至上主義の表れだと解釈され、田舎暮らしの謎めいた男たちというイメージの強化に繋がった。「世間は『あんな山奥で彼らはいったい何をしているのか?』みたいな感じだった」ロバートソンは2015年にUncut誌にそう語っている。「素性の知れないバンドっていうイメージが生まれてた」。だんまりを決め込んで世間の憶測を煽るというのは、アルバート・グロスマンが多くのアーティストに実践させていたプロモーション戦略だったが、ザ・バンドのショービジネスに対する無関心ぶりは本物だった。「できればツアーには出ないつもりだった」ヘルムは自伝でそう述べている。「ベースメント・テープスやビッグ・ピンク期に確立したやり方で曲を書き続けること、それが僕たちのポリシーだった。名声に無頓着だった僕たちが望んでいたのは、誠実さを失わずに活動を続けていくことだった」

しかし、そういった展望は田舎暮らしならではの思わぬ落とし穴によって変更を余儀無くされる。「僕たちが住んでた家からはアショカン貯水池を見渡すことができて、よくそこでバーベキューをしてた。ある日、リチャードが火を強めようとグリルの底にガソリンを注いだ」ヘルムは自伝でそう述べている。一方ハドソンは、マニュエルが「可燃性の高い液体を流し込んだ瞬間、グリルから吹き出した炎によって彼はくるぶしに火傷を負った」としている。ヘルムはさらにこう付け加えている。「グリルは爆発し、彼は足の甲にひどい火傷を負った。彼がその後2カ月間ドラムを叩けなかったことは、僕たちが1968年の夏に『ビッグ・ピンク』のツアーをやらなかった理由のひとつだった」

彼らがツアーに出なかったもう一つの大きな理由、それは複数の交通事故だった。ヘルムは愛車のバイクのスピンによって足を負傷し、ダンコは「ちょっと飲み過ぎてた上にハイになってた」時に車で大木に衝突し、瀕死の重傷を負った。その事故で彼は首の骨を折り、背骨は4つに分断されていて、以降7カ月間ほぼ寝たきりの生活を余儀なくされた。「僕は何週間も牽引治療を受けることになった」彼は『ザ・バンド 軌跡』でそう述べている。「僕が事故に遭い、首の怪我が治るまで何もかもを我慢してベッドに横たわってることを公表しないようアルバートに伝えた」。彼らがザ・バンドとして初めてステージに立ったのは、1969年4月17日にサンフランシスコのWinterlandに出演した時だった。

バンドが身動きが取れない状況下で、Capitolの宣伝チームはアルバムのセールスを伸ばすために風変わりなプランを立てる。彼らが企画した様々なコンテストについて、ヘルムは「僕たちを10代の女の子たちが夢中になるようなバンドに仕立てあげようとしてた」と語っている。プロモチームが企画した「A Big Pink Think」と題されたキャンペーンでは、ディランによるイラストのタイトルを公募したり、「Big Pinkにちなんだ名前をつけるとしたら、自分はBig Pink _____だ」という文章の空欄を埋めるようファンに呼びかけたりすることになっていた。賞品リストにはピンクレモネード、ピンクのパンダのぬいぐるみ、ピンクのヤマハのバイクなどが含まれていた。「レコードの発売に合わせて、ピンク色に染めた象をロスのタワーレコードの前に連れてくるなんていう馬鹿げた案もあった」ロバートソンは『ザ・バンドの青春』にそう記している。「アルバートと僕はロスまで出向いて、Capitolの社長に就任したばかりだったStanley Gortikovと話し合った。主な目的は『ビッグ・ピンク』とザ・バンドの何たるかを伝える上で、ピンクの象やネーミング公募がいかに不適切かを伝えることだった」。彼らの意向を受け、それらの案は早々に却下された。

Translated by Masaaki Yoshida

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