ザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』知られざる10の真実

ザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』ジャケット画像


6. アルバムのオールドファッションなポートレートのフレーム外には、裸で踊るヒッピーがいた

定石に抗うかのように、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』はリチャード・マニュエルとボブ・ディランが共作した穏やかでソウルフルなスロートラック「怒りの涙」で幕を開ける。独自の路線を行くというバンドのスタンスはレコードのカバーにも表れており、世界的に有名なフォトグラファーたちによるポートレート撮影のオファーも全て却下した。「いい子ぶった自分たちの写真を使うなんてまっぴらだった。そういう写真を見ても、僕は何とも思わなかったしね」ロバートソンはそう話している。彼をインスパイアしたのは、目を覆いたくなるような欧米諸国による強制労働の歴史を描く19世紀の写真集だった。「その本に載ってた写真には、どこか訴えかけてくるものがあった」。「最高」のカメラマンよりも「最低」のアーティストとの仕事を望んだロバートソンは、廃刊寸前のアングラ雑誌Ratの専属フォトグラファーだったエリオット・ランディーに目をつけた。ザ・バンドとディランが1968年1月にカーネギー・ホールで行われたウディ・ガスリーのトリビュートコンサートで共演した際に、ランディーはアルバート・グロスマンによって会場から叩き出されていた。

幸先こそ良くなかったものの、やがて意気投合したランディーとロバートソンの2人は4月下旬に、リヴォン・ヘルムとリック・ダンコがビッグ・ピンクから移り住んだベアーズビルの一軒家を訪れる。メンバーたちは時代劇で使われそうな帽子やベスト、それに蝶ネクタイ(彼らは普段から似たような服装していた)を身につけ、オールドファッションなダゲレオタイプを演出すべく野原に立った。「当時のフィルムはすごくスローだったから、できるだけじっとしているよう彼らに伝えた」ランディーはそう話している。「ポーズを決め、深呼吸し、微動だにしないこと。少しぼやけてるのは、シャッター速度を1/4秒に設定していたからだ」。メンバーたちは厳格な表情を保とうと努力していたが、そこで思わぬものを目にする。「フォトグラファーがカメラに集中している時に、ガースの友達の新妻が僕たちを笑わせようとして、ランディーのすぐ後ろで踊っていた」ヘルムは『ザ・バンド 軌跡』でそう綴っている。「最初の1枚を撮る時、彼女は裸になってグラインドを始めた。真剣な表情の男たちが、踊り狂う裸のヒッピーを見つめている画はさぞ奇妙だったに違いない。結果的に使ったのは、まさにそのショットだったはずだ」

●【画像を見る】レコードカバー掲載のポートレート

ベアーズビルでのフォトセッションに加え、ランディーとメンバーたちはオンタリオ州シムコーまで出向き、リック・ダンコの兄弟が所有する牧場で、カナダに住むメンバーの家族たちが一堂に会したポートレートを撮影している(同行できなかったアーカンソーに住むヘルムの両親の写真は、ポートレートの上部左端に挿入されている)。その「家族写真」もまた、ステージで毎晩のようにエディプスコンプレックスのファンタジーを演じるジム・モリソンのようなロックスターに対するアンチテーゼだった。「母親を憎み、父親を刺すみたいなのが、当時の音楽におけるパンクなアティテュードとして持てはやされてた。あの写真は、僕たちがそういうのとはかけ離れてることを示すステートメントだった」ロバートソンは1969年に本誌にそう語っている。「僕たちは両親を憎んだりしていないからね」


7. アルバムスリーブのデザインは「I♡NY」のグラフィックで知られるミルトン・グレイザーが手がけている

「僕たちのデビューアルバムには眉唾もののエピソードがたくさんある」リヴォン・ヘルムは1993年にそう語っている。「僕たちのカバーショットなんてものは存在しない。ボブ・ディランが描いた5人のミュージシャンとローディー、そして象のイラストがすべてだよ。スリーブ内のグループ写真とバンドを結び付けられる人は多くなかった」。実際にアルバムのアートワークでは、彼らのポートレートよりもビッグ・ピンクの写真の方がはるかに目立っている。バックカバーではヘッドライン並みに大きなアルバムタイトルの文字がビッグ・ピンクの小さな写真を囲んでおり、スリーブ内に見られる現在のロバートソンの妻であるドミニクによる簡潔なヴァースは様々な憶測を呼んだ。

その印象的なデザインは、前年に発表されたボブ・ディランのベスト盤のカラフルなポスターを手がけたミルトン・グレイザーによるものだ。彼はある意味で、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のプロジェクトの生みの親でもある。60年代初頭に、アルバート・グロスマンをウッドストックに連れて行ったのはグレイザーだった。その牧歌的な風景に魅せられたフォーク界の仕掛け人は、それからほどなくしてベアーズビルの近くに別荘を購入し、ディランをはじめとする多くのアーティストによる作品、そして数々の伝説が生まれる舞台の基盤を作った。

ディランによる絵、ランディーが撮ったバックに山が見えるポートレート、そして例の家族写真を使ったアルバムのデザインを、ロバートソンがグレイザーに依頼しようと考えた時、彼はまだその近所に住んでいた。「タイトルは『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でいきたいと伝えた」ロバートソンは自伝『ザ・バンドの青春』でそう綴っている。「『ビッグ・ピンクって何だ?』と訊く彼に、僕は今作ってるレコードの曲が生まれてきたクラブハウスだと説明した。すると彼は、それがどういうものか知りたいから写真を見せて欲しいと言ってきた。はっきり言って醜い、ピンク色の建物だと伝えると、彼は興味を持ったようだった。『君らのグループ名は?』と尋ねられ、僕はこう答えた。『そっけないんだけど、ザ・バンドって言うんだ」

Translated by Masaaki Yoshida

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